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Re: 改革

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月26日(木)11時30分5秒
返信・引用
 
☆ 勇俊 さま

こんにちは。

>> 休みは元旦だけ、図星です。
そんなじい様でしたが、戦後、農地委員に、たくさんあるんだからいいでしょ、なんて
わけわからない理由で農地の一部を取られちゃいました。

その後、なぜかその農地委員は大金持ちの大地主となりました。

さらにその後、その農地委員は落ちぶれて、最後は長屋で孤独死。

悪い事はできないねぇと皆で納得しました。

農地改革なんて、そんなもんです。 <<

祇園精舎の鐘の聲
諸行無常の響きあり
沙羅雙樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もつひには滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ

ってところですね。

 お題の「改革」については、梅酔會(meizuihue)掲示板をチラッと見てやってくださいませ。
 津田左右吉先生が、わかりやすく解説してくれてあります。

ありがとうございました。
 
 

改革

 投稿者:勇俊  投稿日:2010年 8月26日(木)11時01分30秒
返信・引用
  クロ様

休みは元旦だけ、図星です。
そんなじい様でしたが、戦後、農地委員に、たくさんあるんだからいいでしょ、なんて
わけわからない理由で農地の一部を取られちゃいました。

その後、なぜかその農地委員は大金持ちの大地主となりました。

さらにその後、その農地委員は落ちぶれて、最後は長屋で孤独死。

悪い事はできないねぇと皆で納得しました。

農地改革なんて、そんなもんです。
 

戦前『労働は喜びである』→戦後『労働は苦役である。』

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月24日(火)21時04分2秒
返信・引用
  > No.125[元記事へ]


☆ 勇俊 さま


こんばんは。

>> よい歌ですね。 <<

 でしょう?
 昭和二十七年の曲です。
 この頃は子供向けのこうした佳曲がたくさんありましたね。
 田舎へ行かなくとも、日常的に“蓑着て笠着て鍬持った”お百姓さんの姿を目にすることが出来たのに・・・。
 “近代化の波”とは怖ろしいものです。
 大分の場合もそうでしたが、生まれ故郷の福岡でも、御多分に洩れず、一面の田圃が一大住宅街と化してしまいました。

>> うちのじい様も、
1年364日、朝は星が出ているうちから田畑に出て、夜は星が出るまで
働き通しでした。
まねできないすごいじい様でした。 <<

 1年365日に一日足りないのは、元日だけがお休みだった、ということでしょうか?
 これぞまさしく“お百姓さん、お働き”ですね。
 それが今や、週休二日制といい、移動祝日といい、祝祭日(但し、戦後に「祭日」は無いのだそう。)の振替休日といい、何かにつけ休むことばかり。
 勤勉な国民性を誇った日本人も、とうとう“労働を苦役”とする西洋思想に汚染されてしまったのか。

 おお、やだ、や~だ。
 

よい歌

 投稿者:勇俊  投稿日:2010年 8月24日(火)17時07分51秒
返信・引用
  クロ様

よい歌ですね。
うちのじい様も、1年364日、朝は星が出ているうちから田畑に出て、夜は星が出るまで
働き通しでした。
まねできないすごいじい様でした。
 

お百姓さん、ご苦労さん。

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月23日(月)20時10分54秒
返信・引用
  > No.123[元記事へ]

勇俊さんへの返信です。

 昆布刃無バッハっは。

>> 田んぼを作って維持していたのは誰でしたっけ?
侍??

サムライがいないから何もできないって。
馬鹿も休み休み言うべきですね。 <<

(↑)勇俊さんに因んで、引用文は軍服色にしてあります。

 さすがに鋭い!

 明治維新を成し遂げたのは、確かにお武家さまやお公家はんたちだったかもしれないが、彼らを喰わせ生かしておいたのは、お百姓さんたちですもんね。
 当時の人口比率からいっても、お百姓さんが「日本」を支えていたことは間違いのない事実。

 と言うことで、お百姓さんを賛美する歌をどうぞ。



ありがたうございました。
 

オラは百姓

 投稿者:勇俊  投稿日:2010年 8月23日(月)14時00分52秒
返信・引用
  九六さん、お集まりの皆さん、起きてますか?

シャキーンとしてますか?

と思いましたが、いつの間にやらお名前がクロ様に。

なんと言ってもですね、日本の原風景(この言葉もだいぶ胡散臭く感じますが)と多くの
人々が感じるものには、田んぼが含まれていることがほとんどです。

田んぼを作って維持していたのは誰でしたっけ?
侍??

サムライがいないから何もできないって。
馬鹿も休み休み言うべきですね。

本日これまで、またいつか。
 

食事前の合掌

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月20日(金)14時00分7秒
返信・引用
 
 先ほど、新宿西口の某居酒屋で、秋刀魚定食(¥550-)の昼食を摂取して参りました。
そろそろ旬となる「秋刀魚」を話題にしようというわけではございませぬ。

 実は、そこで眼にした光景であります。
隣に二十歳代と思しきOL風二人組がご着席なさいました。
とりとめもない会話の途中で、一方の膳が運ばれてきても相手方の分が来るまで手を付けようとなさらない。
これだけなら、女性にありがちな善き習性とも言えますが、いよいよ摂取の段となったとき、双方とも合掌してお召し上がりになりました。それもタイ式挨拶のように優美な曲線を描いて。

*ご参考*


 『タイのお国柄』という歌ですが、動画の中で歌うラチャノクさんが三度ほど手を合わせます。
これです、このかたち。
タイに在って、ごれがきっちり出来る人(特に女性)は、それだけで清く正しく美しく感じます。

 お若いのに、食事前に合掌する習慣をいまなお守っている人を見て、「偉いなあ」と感心すると共に、我が事のように清々しい気分になりました。

 とっくの昔にメッキが剥がれてしまった自分が言うのも僭越ですが、「日本」はこうした目立たない善良な人々によって支えられているのかと思うと、多少なりとも安堵した次第です。
“日本解体阻止”などと声高に叫ぶ人たちが、「日本」を支えているわけでは決してない。
彼らは食事に際して手を合わせているのだろうか。
きちんとした挨拶が出来ているのでしょうか。

それだけです。
すみません。
 

お知らせ

 投稿者:管理者メール  投稿日:2010年 8月20日(金)00時39分39秒
返信・引用
 
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ありがとうございました。
 

忘れ難き人々 『海軍先生』の巻 その十 (最終回)

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月19日(木)14時50分32秒
返信・引用
 
 先生の教えの一端を「語録」(?)から拾ってみましょう。
 といっても、文献が遺されているわけではなく、個人的に承った言葉を含む、且つおのれの記憶のみに頼った甚だ一面的で主観の強いものであります。
 したがって、ニュアンスが少し違っていたり、思い込みのあまり、脳内で勝手に“先生の言”としてしまった可能性もあることを予めお断りしておきます。

  ① 学校は、世の中に出たとき、困らんようにするための道場だ。
   今のうちに揉まれておけ。

  ② お天道様に感謝してるか。空気に感謝してるか。
   御まんまに感謝してるか。

  ③ 親に頼るな。先生に頼るな。自分で考え、自分でしろ。
   父ちゃん、母ちゃんは、いつまでもおらんぞ。

  ④ したいことをしろ。したくないことはするな。

  ⑤ 子供は遊ぶことが仕事、思いっきり遊べ。
   勉強は、学校ですればよい。

  ⑥ 一人で生きられるのが一番強い人間だ。
   だが、人の助けなくして一人では絶対に生きていけん。

  ⑦ 子供たちでできることは子供たち同士でしろ。
   これは、大人になるための訓練だ。

  ⑧ 自分でできることを一つでも増やせ。
   人を頼りにせねば生きられないか、自力で生きていけるか。
   どっちがいいかよく考えてみろ。

  ⑨ 人から教えてもらおうなどと甘えた考えは捨てろ。
   周りがみんな敵だったらどうする。敵が教えてくれるか?
   自分で考え知恵を絞り出すしかなかろう。

  ⑩ 自分の能力は世のため人のために使え。
   自分のためならいつでもできる。

 こうして並べてみると、学力をつけることよりも自立心の養成に眼目を据え、社会へ出たときに否応なく生じる他人さま(自分以外の人)との関わり方について子供ら自身で考えさせ、その心身を鍛えあげることに先生の最大の狙いがあったように窺えます。

 卒業文集に、先生が寄せてくださった一文を併記しておきます。
文献(?)の引用ですから、こればかりは正真正銘の“先生の言”に相違ありません。

体の中の虫
<なまけ虫>
 よく宿題をなまける。
 学校でも、勉強をなまける。
 中学校に入ったら、がんばるぞ。
<だまり虫>
 今日も先生に問れたとき (←原文のまま)
 だまちょった。
 「はい」も云わんじゃった。
 わからないなら、なし
 「分りません」と、云えんのじゃろか。
<横見虫>
 よこ見虫、よこ見虫
 勉強の時間になると
 じきよこを向きたくなる
 しゃべりたくなる。
 中学校に入ったら、
 英語が、数学が・・・。
 これは油断が、ならん。(←大分弁では「ザ行」が「ダ行」に訛る)
 がんばるぞ。

 ついでと言ったら叱られますが、家庭科の先生。

 御卒業おめでとうございます。
 あれからもう三年も、たってしまったとは。
 今はみなひょろひょろのびて最上級生になりすましているけど、あの頃はずいぶんちびだったですよ。
 がやがや、わあわあ言って全校で一番あばれんぼうだった。
 それがもうすぐ中学生、楽しみなような、そして又、何となく不安な気持でいられることでしょう。
 人生の一つの区切りとして、新しい気持で卒業入学を、有意義な物にしていただきたいと思います。
 「人間は考えるあしである。」といった人があります。
 今のような科学が発達し考えなくても生きていける世の中で、やはり人間らしく生きることは考えられることだと思うのです。
 どんな時でも、最後まで、真面目に考え抜く人、こんな人になって、いただきたいと思います。

 文集によると、小四時は他組の学級担任、という「事実」が判明。
新米教師と書きましたが、記憶の間違いでした。先生、すみません。

 最後にもう一題。
禅寺に通ってるみたいと表現した五・六年時担任の先生。
ちっとも褒めてくれないので懐かなかったものの、いま読むと心にぐっと沁み入ります。

 僕のように気むつかしやの人間を今日まで先生、先生といって、共に勉強してくれたことをうれしく思う。
 自分のことは自分でやることだ。親にも、先生にも頼ってはならぬ。
最後まで自分ただ一人と思って頑張るのだ。
 苦しみや悲しみに負ける人間は何事もなしとげることが出来ない。
歯をくいしばって頑張ろう。

 あららっ? とすると語録の③は、こちらの先生だったのかなぁ。

 ともあれ、まことに勝手ながら《海軍先生の巻》は、これにてお終いとさせていただきます。

ありがとうございました。
 

忘れ難き人々 『海軍先生』の巻 その九

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月18日(水)21時45分41秒
返信・引用
 

 “長靴”(晴れの日も長靴だったことから)と渾名される同級生がありました。いつも校庭を眺めたり居眠りしてばかりで、授業に集中していないのは明らかでした。なのに先生は、「眠いなら寝てていい。けんど、鼾かくなや。話がみんなに聞こえんけんのう。」と苦笑するだけで叱らないのが不思議でなりませんでした。

 一学期も終わる頃、その長靴君の家庭教師を先生から仰せつかりました。そして
お前は、良いものをたくさん持っている。しかし、勇気がない。勇気がないと良いものも何もかも失くしてしまう。授けてやりたいが、こればかりは自分で考え、コツを掴むしかない。護國神社へ行って、勇気の神様にお願いしてみぃ。“長靴”(実名)をよく観て修行するんだ。これがお前の夏休みの宿題である。」
 護國神社はともかく、虐められっ子の長靴君がどうして勇気と関係があるのか、まったくわかりませんでした。

 さして勉強が出来たわけでもない力不足のわたしに、なぜ大役が回ってきたかと申しますと、この話には前段があります。
 件の彼女が悪童らに「私のラバさん酋長の娘~♪」と囃し立てられ、からかわれているのを目にしても、自分ではどうすることも出来ず、先生に助けを求めたことがありました。が、思惑に反して「お前、それでも男か?」と逆に叱られたあげく、「何とかしちゃらんかいっ!」と思いっきり尻を蹴飛ばされる始末。最終的には先生がその場を取りなしてくれましたが、想い出したくもないバツの悪い一日でした。自分には腕力がない、即ち悪童の前では自分も弱者、と卑屈な考えを当然のように思い込んでいたのです。

 夏休みに入り、先生から言われるままに長靴君の家を訪ねてみてびっくり仰天。馬小屋と見紛うようなあばら家でした。家業は今でいう古紙等の廃品回収業。お母さんがせっかくお茶を出してくれたのに、ネコの茶碗みたいで大いに戸惑いました。
 勉強のほうはまったくダメでした。妹から二年生用の教科書を借りてみたりもしましたが、無理でした。そもそも文字が読めないのです。どういうわけか名前だけは、漢字で正確に書けましたけど。

 長靴君の家に一日だけ泊めてもらい、寝食を共にしてみました。することといえば、取り留めもない雑談に笑い合って悦ぶだけ。夜ともなると満天の星が輝き、ラジオもない家(廃品の携帯ラジオがあった気もするが)の周りからは蛙の鳴き声が聞こえ、螢が舞い込んでくるなど、いまも「おのれの原風景」となって記憶に残る特別な一晩でした。

 翌日、彼はお父さんとリヤカーを牽いて古紙回収のため各家を回ります。わたしも一緒についていきました。訊くと毎日手伝っているという。先生が叱ろうともしない理由がここにありました。
 彼は釣りが好きで、誘われて川へ行くと、意外にも名人でした。次々と釣り上げて嬉々とした表情の彼に対し、こちらの棹には一尾もかかりません。そんなことから、彼を釣りの師として自分が教わるという、師弟の関係がいつの間にかあべこべになってしまいました。

 何の欲得もなく、怒らず嘆かず、平々凡々と暮らしているだけの一家に不思議な感動を覚えました。だのに、職業的偏見からか、世間では蔑まれていることに義憤も感じました。彼に比べれば自分は、なんと恵まれていることか。少しでも力になってあげたい、と思うようになりました。

 帰宅すると、「もう(彼のところへ)行きなさんな」と母に言われ、ムッときてはじめて親に反抗しました。母にしてみれば、世間体があって噂を気にしたのでしょう。「いいじゃないか、好きにさせれば。」という父には、先生と似た別の考えがあったのかもしれません。
 この日を境にして、せっせと古新聞を集め、一家へ届けました。助けるとしても自分自身が強くならなければと意を決して、人が嫌がること(例えば「肥担ぎ」)も自ら請うてやりました。色々の偉人・英雄伝を図書館で読みあさり、自分に何が足りないかを考え、山に籠って剣術の稽古を積む武芸者の姿を想像しながら、それを真似てみたりもしました。
 長靴君との交友は日々深まり、一心同体化していったと言ってもいいほどです。

 夏休みも終わったある日、無抵抗の長靴君が上級生二人に襲われ、小突きまわされていました。なぜか自分が殴られている気がして頭に血が上り、我を忘れると普段出したことのない大声が出て「貴様ら、殴るならオレを殴れ!」と割って入りました。あまりの怒声に敵は怯んだのでしょう、「憶えてろ」と長靴君に捨てゼリフを吐いて、あたふたと逃げていきました。同級男児らが事態を野次馬してましたが、「凄げえ」を連発。弱者が一躍英雄へと祭り上げられてしまいました。

 そして、担任女教師に首根っこを掴まれるようにして件の上級生が我が学級を謝罪に訪れました。こちらに謝ろうとする二人は、「相手が違うでしょ」と担任から嗜められ、バツ悪そうにして長靴君に対し改めて謝罪しました。何事かその教師と密談ののち先生は、「何だ、勇気があるじゃないか、どうして今まで隠してたんだ。」とたいそう喜んでくださいました。

 こうして個々の出来事を採り上げる分には、何の違和感もないのですが、小四一年間を通した時系列で観てみると、日時に疑問符がつく部分が偶にあります。つまり、当時を知る唯一の物証である「通信簿」と、おのれの記憶(日時の点で)との間に一致しない箇所が出てきてしまうんですよね。

 自慢するのが本意ではありませんけれど、例えば二学期には「級長」に推挙されています。それには、今回書いた出来事が大いに関係したと考えるほうが自然なのですが・・・。一学期の行状にしても、家庭への通信欄では《真面目に勉強する。行動その他、他の級友によい影響を与えている。》などとなっているんですね。はて、最初からそんな良い子だったかしらん。

 まあ、自分にとっては大切な記憶の整合性であっても、お読みいただく人にとってはどうでもよいことでしょうから、気にすることはないと思っておきましょう。

ありがとうございました。
 

我れ かく戦えり

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月18日(水)13時48分7秒
返信・引用 編集済
    そういうことでしたか。
 しかし、いまの自分も、ほぼ同じことです。
このとしになれば、周囲がだれひとり、自分などに関心をもっていないことに気づきます。それでも、やはりかつて父母がいて、自分が生まれ、そして、なにものかに抗しながら存在している事実は、間違いがありません。

私自身、経験がないのですが、自分の過去を顧みることは、おのれ自身を知る最良の行為でしょう。愚かだったであれ、よくぞやったであれ、自身に反省を迫り、愛惜の情を起さしめるものは、そうしたtoki以外にはありません。

どうぞ、お続け下さい。愉しみにしています。
 

どこかの馬の骨はかく生きたり

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月18日(水)11時26分20秒
返信・引用
  > No.116[元記事へ]


☆ しかばね 様


遅いおはようございます。

>>クロさんの子々孫々には、かけがえのない父祖の記録ということになりましょうから。<<

 それがですねえ。
 孫子に関して、いま現在、一人もおりません。
 たぶん、将来とも。
 故に、悲しいかな父祖となることはあり得ないのです。
 “彼女”について書けるのも、自分には“山の神”が存在しないという特別な事情によるところが大きいです。
 

父はかく生きたり

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月18日(水)10時18分37秒
返信・引用
      おそるべき記憶力ですね。
どうぞ、我々へのサーヴィス精神は、この際抜きに『実録』を遺すという意欲で書き続けられては如何でしょうか。他人の毀誉褒貶は如何であれ、クロさんの子々孫々には、かけがえのない父祖の記録ということになりましょうから。
 

忘れ難き人々 『海軍先生』の巻 その八

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月17日(火)20時25分11秒
返信・引用
 
 お約束どおり、《女の逆襲》を二題お届けします。はじめに給食の時間。

 育ち盛りの子供にとっての給食は、楽しみの一つでしょう。けれども福岡の学校では、あの憎っくき米軍の恵みを受けた大嫌いな脱脂粉乳とコッペパン、加えておかずといった献立。しかも、出されたものは全部平らげるよう指導されましたから、偏食激しい自分には苦痛でしかありませんでした。有り難いことに、大分では脱脂粉乳が瓶入牛乳、コッペパンが食パン二切れに代わりました。それよりも何よりも、好みに応じて盛りを加減してくれるのでたいへん助かりました。

 福岡の時と違って、先生も我ら児童と共に同じ給食を摂取なさるんですね。摂取場所こそ我らから少し離れた教壇の脇隅にある先生専用教卓でしたが。そして、自分は転校生なので、どういういきさつがあってのことか知りませんが、ドラム缶状の食糧運搬器で給食室から運んでくるのは男児、食器に装るのは女児のそれぞれ当番と決まってました。

 それで以て、悪ガキどもが当番ともなると、底が透けて見えるほどちょこっとしか運んで来ないんですよね。
 運搬器を覗き込んだ先生、
「なんぢゃい、これは。みんな腹を空かせておるに。遣り直し!」
 頭を掻き掻き悪ガキどもは給食室へ舞い戻っていくが、何度試みても結果は同じ。言い訳の「給食室には何も残ってないそうです。」をオウムの如く繰り返すだけ。
 いよいよ業を煮やした先生、
「役立たずぢゃ話にならん。級長、お前が掛け合って来い。」
 ご指示により数人の随行員を伴って級長が給食室へと消えていく。すると、溢れんばかりのてんこ盛り運搬器を重そうに抱えて戻ってきた。
「そおれ見ろ、ちゃんとあるぢゃないか。怠け者がウソ吐くな。」

 今なら給食の小母さんと結託した“芝居”であったろうとわかりますが、そのときは級長の力とは大したものだと感心したものです。

 《女の逆襲》の観点で書きますと、食糧装い係の女児当番が「好きですか嫌いですか」と訊いた上で適量を配給くださることになっていました。「好きです」と応えたら大盛りにしてくれますし、「普通」と言えば並盛り、「嫌い」と言えばごく少量、といった按排。
 ところが食糧装い係さまは、悪童に対してだけは「好き」と言おうが何と応答しようが、お澄まし顔で一切無視なさり、“雀の涙”より更に少ない、顕微鏡でしか見る事が出来ないほどの超微量しか配給なさらないのですよ。女児たちの、無慈悲なまでの逆襲に対し、先生はと言えば注意なさる風もなく、いつも見て見ぬふりでしたね。
 悪童どもの困惑しきった表情を見ながら、「いい気味」と内心ほくそ笑んだものです。

 次に家庭科の時間。家庭科は五・六年生の時ですから、担任も替わって先生の教えと直接の繋がりがある話ではありません。けれども、児童との関わり方において、その方向性・手法といったものが全校の先生がたに共通していたことを窺わせてくれます。

 五・六年時の担任は、戦前にあっては満洲で訓導をなさっていた先生で、まるで禅寺に通っているようでした。これにも結構面白いものがあるのですが、脇道に逸れますので今は触れません。
 それで、家庭科の時間だけは担任によらず、替わりの先生に受け持っていただきました。まだ新米教師で若い未婚の女先生でした。そんなこともあって、甘く見た我ら男児は、黒板消しを教室扉に仕掛けて御髪を真っ白にして差し上げたり、はたまたバケツを仕掛けて冷や水を浴びせかけたり、悪戯の限りを尽くしては歓んでいたものです。ところが、敵(?)も然る者。この家庭科の時間にきっちり仕返しをされました。

 その授業。出来るところまででいいから誰の手も借りず、自分だけで雑巾を縫ってみましょう、という“お題”が出されます。そして、児童らが作業中の間、先生は教卓の椅子に腰掛けたまま文庫本なんか読んだりしちゃって、素知らぬふりなさってる。
 男児のほとんどは、そんなこと言われたって雑巾など一度も縫った経験がないから、何をどうやったらいいかもわからない。まごまごしている当方を見かねた隣の女児が「あたしに貸しよ。」と小声で言い、手際よく縫った完成品をポンと投げ返してくれる。が、ズルした犯行現場(?)を先生に見られてしまったのではないかと気にかかって、我が胸はドキドキしどおし。

 やがて先生による作品の検閲・評価の段と相成ります。
 当方のところへやってきた先生、
「あ~ら、良く出来てますわねえ。」だって。隣の女児が縫ったと知ってるくせに。
 これが悪ガキとなるとそうは巧く事が運ばない。なぜなら、日頃の恨みがあって、頼まれても助ける女児などいやしない。
 そうするうちに、遂に先生の検閲は悪ガキのところに及ぶ。眼鏡の縁に手をかけた先生、
「何ですか、これ。一針も刺してないじゃありませんか。先生は、出来るところまででいいといったでしょ。それを何もしないで怠けているのが一番いけません。水を汲んだバケツ持って廊下に立ってらっしゃい。」

 まあ、わたしだって妹の証言にもあるように悪戯ばかりしてたほうですが、こう見えても、女の子の評判は決して悪くなかったですね。あの頃の男児にしては珍しく比較的女児とも遊んでいたせいかもしれません。男同士だと、チャンバラごっこや戦争ごっこ。そうした遊び自体に不満はないのですが、いつも斬られ役か露助役ではつまりませんからね。その点、女児となら静的遊びが多いものの、大歓迎をしてくれました。おかげで、女児の遊びのほとんどは知ってます。ちっとも上手くはなりませんでしたけど。
 一般の男性陣と比べれば、童謡に異常な関心を抱くようになったのも、こうした経験が素地にあることは否めません。彼女らは、たいてい童謡や子供歌を歌いながら遊んでましたからね。

 なお、面白く読んでいただこうと、やや誇張した表現を多用することになってしまいましたが、書いた内容に大筋で嘘はありません。
 

Re: おおなんと

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月17日(火)17時30分33秒
返信・引用 編集済
  > No.113[元記事へ]

 おんやまあ、お珍しや。
 これはまたนานาさん命の勇俊さんではありませぬか。
ようこそまたまた恨めしやのお化け屋敷へ!

 あいにく今は、陸式でなく、海軍の話になっておりますです。
 しかし、ここは、何でかんでも、ワイワイガヤガヤを旨とするところであります故、お好きなときにお好きな話題をお好きなだけお書き込みいただいて一向に差し支えございません。

 遠慮なさらず、どうか良いお年を(???)
って何の話をしていたのだったかな。

 ま、それもよかろう。とにかく、今後ともよろしこ・・・。
 

おおなんと

 投稿者:勇俊  投稿日:2010年 8月17日(火)15時21分23秒
返信・引用
  九六さん、お集まりの皆さん、起きてますか?

シャキーンとしてますか?

なんと豪勢な、なんと優雅な。

これまでの幽霊屋敷がうそのようですね。

おおっと、邪魔をしてはいけません。

本日これまで、またいつか。
 

忘れ難き人々 『海軍先生』の巻 その七

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月16日(月)23時41分35秒
返信・引用
 
 これから書こうとする《女の逆襲》について、参考のためにウェッブ検索していて興味深いことに気がつきました。単に自分が思い至らなかっただけのことですが、戦後教育では「男女同権思想」からなのか、男であっても家庭科(小学校5年・6年)の授業を受けさせられました。中学校でも技術・家庭科があって、これはなぜか男女別々の履修でしたが、技術科(男)は電気・機械・工作など、家庭科(女)は衣服(裁縫)・食事(料理)などと記してありました。

 これを読んでピンときたのです。海軍先生は、実はこの「男の持ち分」と「女の持ち分」を上手く操っておられたわけですね。《その五》で書いた「電球取替(男)」と「ボタン着け(女)」というのも、それぞれの“持ち分”の対比ですし、《女の逆襲》とは些か大げさな表現になりますが、これとても“持ち分”を逆手にとったものに過ぎません。

 またまた余談になりますが、件の彼女とは概ね仲良くなり、自分にとっての奥さんみたいで大変重宝(と言ったら叱られそう)しました。彼女の家は学校のすぐ傍、しかも通学路に面してましたので、帰宅前に洗濯してもらったり、放課後の遊びの最中にはおにぎり作ってもらったり。その代わり、壊れた時計とか鳴らないラヂオの修理やらをよく頼まれました。台風の時には、近くの同級男児らを集めて何の役にも立たないような家の補強普請までおせっかいしてましたね。頼まれれば自分には出来ないとも言えず、図書館に通っていろいろ調べたりしました。理数系が赤点だらけのくせに、機械いじりだけは下手の横好き化してしまったのは、この時のおかげと感謝しています。

 余談ついでに、《女の逆襲》という意味で彼女にまつわる逸話をもう一つ。或る日、泥んこ姿の当方を見かねて洗濯してあげるという事でした。ところが、いきなりズボンを脱がそうとしたので、羞恥もあって「要らんことするな!」と怒って帰ったことがあります。そのことが、神様を通じて世にも怖ろしい先生に知られてしまったのであります。呼びつけられてこっぴどく叱られた上、土下座して謝ってこい、とのご指示。

 仕方なく、石ころを蹴飛ばしながら彼女の家を訪ねると・・・・。何と、そこには副級長(副学級委員長を略して専らこう呼んだ)以下、番長風三四人の精鋭女児衆が腕組みして待ち構えておられる。多勢に無勢、懸命に謝罪するも赦してもらえず、「女の辛さを思い知るがよい」とばかりに、彼女と自分の衣服を取り替えっこさせられたあげく、「炊事洗濯、早うせんかい!」という非情なご命令。果ては、股間を思いっきり蹴り上げられる始末。女どもは自分で痛さを知らないから手加減してくれないんですよね。ああ、想い出すだけでも身の毛がよだつ。我が人生における最大の屈辱事件でありました。この時ほど本気で死にたいと思ったことはありません。

 さてさて、それでは本論に戻りましょう、と思いましたが、すでに長くなってしまいましたので、次稿にて、ということでお許しいただきましょう。

ありがとうございました。
 

忘れ難き人々 『海軍先生』の巻 その六

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月16日(月)13時15分7秒
返信・引用 編集済
   授業は“助太刀あり”という一風変わったものでした。いつもがそうだったわけではありませんけど。算数の時間を例にとってみましょう。

 ある目的があって、その子には解けない程度の問題をわざと指して解かせなさる。解けないで困っているのを見かねたフリして、
「誰か助けちゃらんかぃ。みんな友達甲斐がないのぅ。」
と、先生の声がかかる。
「先生、僕に遣らせてください(僕が助けます)。」
と謀ったかのように誰かが名乗りでる。
 正答が確認され、なぜ助けたかの理由を先生に尋ねられる。
「僕はいつも×君(解けなかった子)に相撲の稽古をつけてもらってます。×君は相撲の師匠です。師匠が困っているのを見て見ぬふりしたら僕は卑怯者になって神様のバチが当たると思いました。」
 すると解けなかった子に向かって先生曰く、
「そうだったか。×よ、いい弟子をもったのぅ。勉強がでけんでも心配するな。みんなあいつ(正答者)が助けてくれる。お前はもっともっと相撲が強くなるよう励むだけでいい。そしてみんなを鍛えちゃれ。」

 これが悪童となると、天文学的数字の難問が出題される。いつものことなのでみんな知ってて、桁数が増えるにしたがいクスクスと忍び笑いがこぼれはじめ、さて今日の生贄(?)は誰であろうとワクワクドキドキ胸が高鳴る。指された子にはもちろん、先生でさえ逆立ちしても解けそうにない問題では、助太刀しようにも出来るわけがない。尤も、そんな悪童に味方する者は誰も居ないが。
悪童、黒板に向かったまま真っ赤になりながら「とっ、ぞうくっちょんで。」と脂汗たらたら。

 そして、やおら神様から聞いたとする悪事が先生によって暴露される。

「お前、ワシ(先生)より強いか?」
「先生の方が強いです。」
「そうか。じゃあワシをこづいちみぃ。(殴ってみろ)」
「ほら、怒らんけんこづいちみぃ。どうした?こづけんのか?」
しばらくあって
「お前、昨日、△(女児)をこづいたそうぢゃのう。お前は△より弱いんか?」
「僕の方が強いです。」
そういう弱い人間しかこづけん男を弱虫というんぢゃ。立派なこの腕に感謝しちょるか。しちょらんぢゃろう。ぢゃけん肝心なときに腕が動いちくれん。お前の母ちゃんは、弱い人を護ってやるために頑丈な腕に生んでくれたんぢゃ。どうして女を護ることに使わんのか。役に立たん腕はワシがへし折っちゃる。後で泣いても知らん。一生、女にこづかれながら生きていけ。
と修羅場を経て、翌日母親に連れられた三角巾姿の悪童がみんなの前で土下座して謝らされることになる。

 最初の例の意義を付け加えておきますと、あくまで一般論として考えるのですが、文武両道に長けた子などほんの少数であり、大概は勉強が出来ても運動下手、運動得意でも勉強がまるでダメ、というのが実情でした。だから、その子の得意とする分野を伸ばしてやろうという配慮が、先生にはあったのだろうと想像するわけであります。

 その証拠に運動会ともなると、運動得意組(裏を返せば勉強苦手組)の天下でした。一等から三等までの色リボンをたくさん胸に着けてもらい、それを勲章さながらに輝かせつつ、「お前たちには出来まい」といった誇らしげな風情がありましたから。

 登校するのが毎日楽しみでした。なぜかって、少年漫画本みたいな勧善懲悪の世界を目の前で観られるのですから、痛快でなかろうはずはありません。
 世の中は男社会でしたが、学級内ではむしろ女児のほうが大切にされました。というのも、弱者(女)を護ってやるのが強者(男)の責任、と身に沁みるまで叩き込まれたからです。昼休みの校庭陣取り合戦でも、屈強な男児衆が先に行って遊び場を確保し、同級女子連に譲っていました。四年三組は、それぞれが自分の役割をわきまえており、仲間意識旺盛で、結束力は校内一でした。

 こういうふうに「弱者=女」「強者=男」と決めつけて書くと、《男尊女卑思想の差別主義者めっ!》という怒声が、田島陽子女史や福島瑞穂先生辺りから飛んできそうですね。でもねえ、男と同じにしろといったって、そりゃ太陽が西から昇るよりも無理な話。女には女なりの、男どもに対する逆襲の仕方というものがあるのですよ。それを男のようになりたがるからダメなの。だって、より女らしくすることが、男を籠絡させる最大の武器になることをお知りになろうとなさらないんだもの。

考へるヒント

男が持っていて女にないもの
女が持っていて男にないもの

これの使い分けによって、互いの武器にもなるし助けにもなるということ。
 

忘れ難き人々 『海軍先生』の巻 その五

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月15日(日)22時15分3秒
返信・引用 編集済
  しかばね様、励ましのコメント、ありがとうございます。

 初登校から数日経った或る放課後、所在なげに同級生の勝ち抜き相撲を眺めていると、後ろから、妹らしき小さな女児を伴った同学年位の女の子が「家に来て」と懇願します。「どげんしたとね。」(←まだ博多弁)と訊ねるや否や、いきなり手を引かれ、無理やり彼女の家まで連れて行かれました。電球が切れて、灯りがつかなかったのです。電球の取替えはどこの家庭でも、男の子の仕事でした。もちろん、朝飯前です。あっさり、作業は完了。神業でも見たかのような姉妹に丁重な礼を言われて、意気揚々と引き上げました。

 翌日、前に出るよう先生に言われ、何を叱られるのかと縮み上がりましたが、「みんな自分のことしかしないのに、転校生のお前が人助けしたのは偉い。」と逆に誉められました。おまけに、神様からのご褒美まで頂戴しました。「どうだ、嬉しかったか。」と言う先生の視線の先には、昨日の女の子の姿がありました。

 そうしてそのあと、「ついて来い」と一人だけ職員室に呼ばれました。教科書(転校したばかりで自分だけなかった)が届いたから持っていけ、と言うことでした。しかし、用件はそれだけではなかったのです。乱暴にも襲うようにして上着のボタンを引きちぎられてしまいました。
「おお、取れよったな。お前、これ、自分で着けられるか。」
「自分ではできません。」
「しょうがないなあ、じゃあ彼女(実名)に頼んでみろ。」

 みんなが見ている前で、しかも、助けてやったという思いのある女の子に頭を下げるなど、激しい抵抗感がありました。気が弱いくせに、男尊女卑の差別意識だけは旺盛でしたから。それでも、怖い先生には逆らえず、羞恥を堪えて言われたとおり平身低頭お願いすると、鮮やかな手つきで、ボタンを着けてくれました。

 午後になって、今度は二人揃って前に出されました。

いいか、よく聞け。彼(実名)は電球取替は出来るがボタン着けが出来ない。彼女(実名)はボタンを着けられても電球取替ができない。お互いの仲が悪かったらいつまでも一つ事しか出来んだろう。二人は助け合ったから、各々が一つ事しか出来ないでも困らなかった。そうして、もっともっと友だち仲間が増えて助け合えば、自分に出来ないことが何でもできるようになる。世の中には、お前たちが苦もなくできることでも出来ないで困っている人が大勢いる。お前たちは友だち同士で助け合い、自分にできることを世のため人のために使え。いいな、わかったな。
 次いでわたしに向かって「おい、お前は電気屋になれ。そうして、日本国中の電球を取り替えて歩くんぢゃ。わかったか、それだけで他は何もせいでいい。」

 『修身書』にあることと同じ理屈です。先生の訓話では、自分が登場するのですから、もっと身近で、とてもわかりやすかったです。自分の能力を必要とする人がこの世にいて、自分を助けてくれる人も目の前にいることを実感できて、自信と生き甲斐が持てるようになりました。同時に、同級生に対する仲間意識が芽生え、これまでの孤独感はいっぺんに吹っ飛んでしまいました。

《ご参考》先生と四年三組の仲間たち(S33.3大分縣護国神社)

 クロ坊やは前列左から4人目。件の彼女は勝手にご想像ください。
 第一ヒント・・・最後列のどこかに居ます。
 あの時・・・初めての“昇殿参拝”を済ませた直後の記念撮影。

 余談になって恐縮ですが、かなりの部分で端折って書きましたので、本文には登場させてもらえなかった謎の人物(?)が居ます。それは、写真でいうと、女の子を挟んでクロ坊やの直ぐ右隣に写ってる渾名が「やかん」君(薬罐の如くオツムが光り輝いていたから)。

 転校したばかりで他に友だちもない時分、彼とは席並びで教科書を共有させてもらっていた関係があって、いつも一緒でした。やかん君は無口でしたが絵を描くことが何より大好きでした。気に入った風景を見つけると、突然立ち止まり、炭の破片を鉛筆状にしたものを取り出して画用紙に描きはじめるといった具合。

 彼女の家に連れて行かれた際も、一人では心細いのでやかん君に助太刀を求めたわけでして、電球取り替えも実は二人の合作なのであります。彼の肩車に乗っかって、クロ坊やが電球を取り替えただけのこと。その電球も家が近かった彼が、確か自分の家から持ってきたものでした。神様に代わって先生から賜ったご褒美は「24色ぺんてるクレパス」でしたから、彼が絵好きということを知っての神様(?)の特別な計らいだったのでしょう。

 また、彼女の家は母子家庭で切支丹の末裔だったように記憶します。銀色(或いは“すず製”だったかも)のロザリオを大切そうに持っていましたし、家にはマリア観音像(像というより掛軸状の絵だったかな?)がありました。ただ、この辺りになると、後年になってからの同級生証言とは食い違いが生じていて、何とも心もとないです。それでも、牽強附会を承知でいうならば、自分にとっての彼女は“特別な人”であったのに対して、他は単なる一同級生に過ぎなかったのでしょうから、関心度合の差と理解しておきましょう。

 しかし、不思議なことに、その“特別な人”であったにも拘わらず、自分が大分を去って関東に出てきて以降、文通はもとより学生時代の日記にもまったく登場していないんですよね。手紙のほうはたったの一度だけもらい、その内容も鮮明に記憶してあるのですが、証拠物件たる手紙そのものが何処を探しても見当たらず、まるで幻を見るかのようです。まあ、整理整頓が大の苦手ですから、忘失した可能性がなきにしもあらず。それにしても・・・。

 お断りしておきますが、“特別な人”といってもまだ異性を意識する以前のママゴトですからね。くれぐれも誤解をなさらぬようお願い申し上げます。
 

本格的な自伝を。。。。

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月15日(日)20時40分57秒
返信・引用
      クロさん

  素晴らしい先生との決定的な出会いですね。
 本格的な自叙伝をつくる気概でまとめられますよう希望します。
とりあえず、ROMに徹してますので、頑張ってください。
 

忘れ難き人々 『海軍先生』の巻 《ご参考》

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月15日(日)15時47分13秒
返信・引用
 
《ご参考》
あの頃の東大分小学校(昭和三十六年頃)


 先生との出会いは昭和三十二年ですから、それから四年後の写真ということになります。
 戦前からあった木造校舎は既に取り壊されてモルタル式校舎に替わり、”戦後からの脱却”が急速に図られようとしていたことが覗えます。
 因みに、わたくしの家は後方左手の山間部谷間にありました。その山上が大分縣護國神社。(写真では見えない)

 それにしてもずいぶんと田舎だったんですねえ。
 現在もなお、当時と変わらぬ教育理念を掲げてあるようですが、環境(風景)はまったく様変わりしています。つまり、周囲の田圃は完全に消え去り、いまやビルとか住宅がびっしり詰まった想像を絶する大都会(?)と化してしまってます。

 何を言いたいかと申しますと、先生の教えも、この風景(田園・山河の自然環境+鎮守の杜や神社仏閣)があったればこそ成り立ち得たのではないかと思うのです。都会と化した今の子供たちに、仮におのれが体験したことと同じ指導法を以て当たったとしても、環境が環境だけに、「先生、いまどき神様を信じているの?」と逆に子供にやり込められそうな気がします。

それだけです。すみません。
 

忘れ難き人々 『海軍先生』の巻 その四

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月15日(日)11時26分48秒
返信・引用
 
 担任の先生は、海軍出身で、はじめのうちはいかにも怖そうに見えたので、ガタガタと震えていました。それほど臆病な子供でした。

 最初に先生は、児童を前に大意次のようなことを、大分弁で言われました。(標準語に置き換えて記す。)

 「学校には神様がいる。目には見えないが、どこにでも出かけていき、常にお前たちを見守っている。良いことをすれば褒美をくださり、悪いことをすれば懲らしめられる。一人で忙しいので、たまには見落とすかもしれん。でも心配するな。神様と先生は友達だから、なんでも知らせに来い。すぐ、神様に伝えてやる。」

 果たして学校では、神様が見ていたとしか思えない出来事が、次々に起こります。すっかり信じきってしまい、親が留守のスキを見てこっそり神棚を開けてみたこともあります。「天照大神ナントカカントカ」と書かれたお札がそこにあるだけでしたが、神様は忙しいので、やっぱりどこかへ出かけているんだ、と妙に納得したものです。

 以上はHPの記述を若干手直しした転載です。これが子供ごころによく効きました。先生の言に乗せられ、我ら児童はまんまと騙されていたわけですが、いま考えると、先生を首謀者に父兄もグルとする大がかりな“芝居”だった可能性が高いです。初登校の日、教室に戻された後も先生と母は、しばらく職員室で密談していましたから。確証はありませんがおそらくわたしの性格やら何やらの情報収集が為されていたに違いありません。そう思わせるに十分なほど、母のほうも学校での出来事を実によく知っていました。
 

忘れ難き人々 『海軍先生』の巻 その三

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月15日(日)09時32分45秒
返信・引用
 
 以下は、先生と出会うまでの概略です。

 いわゆる“団塊の世代”(昭和23年生)に属するわたくしでありますから、当然ながら、戦後の教育基本法に基づく学校教育を受けてきました。そんななか、福岡から大分へ転校した直後、即ち小学第四學年の一年間だけは、親たちが経験したであろう『教育勅語』の世界に身をおく機会に恵まれました。そして、その後の物の観方や考え方、行動規範といったものは、無意識のなかにもこのときの体験によって培われたものが骨格になっている気がします。学者の定説では、10歳前後(小学四年生)に自立心が萌芽するそうです。

 と申しましても、『教育勅語』に直接接し、これを諳んじ唱和させられたり、その徳目を教わったりしたわけではまったくないのです。いまにしてあの時を振り返ってみるに、戦前の学校教育とはああしたものではなかったのか、と自分勝手に想像し、それを『教育勅語』の世界と表現したに過ぎません。

 幼児期は、依頼心が強く、臆病で泣き虫で甘えん坊でした。
 朝鮮戦争(当時は“朝鮮動乱”)のさなかにあって、九州福岡は、米軍(国連軍)の、後方基地になっていました。目の前を、武装した戦車部隊が通り過ぎ、戦闘機の大群が上空を飛び交う光景に、怖くなって、逃げ帰る日々でした。これが、精神的外傷となって、深層心理にこびりついてしまったのでしょう。

 「主権在民」「人権尊重」「不戦平和」を基軸とした、福岡の学校は、典型的な戦後民主教育でした。新築鉄筋校舎の快適な環境の中、学力をつける意味ではすすんでいました。将来の“金の卵”として、先生方から大切にされていることも感じました。反面、同級生に対しては、学力優先のあまり、仲間というより競争相手の意識が先行し、漠然とした孤独感に苛まれていました。

 小四の新学期、小二の妹と共に母親に連れられ、大分の転校先へはじめて登校します。そこで目にしたものは、なんとオンボロ木造校舎の正面に、二宮金次郎像が鎮座し、日の丸がはためく学校だったのです。
 

お礼とむかし語り

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月15日(日)08時19分11秒
返信・引用 編集済
       蜉蝣さま

尽きない軍歌の想い出についての薀蓄、お話されたのは、これでも氷山の一角だろうと思います。隠れるようにして、ここで軍歌に触れましたのは、津田左右吉の大著『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の記述から、国民の思想を考える場合に、何よりもその思想が、国民の実生活、国民の心的生活からでているかどうかを検証すべきであるということを軍歌についても考えるきっかけにしたいと感じたことからでした。

私の場合も、このごろは、蜉蝣さま同様、戦時それも戦時末期の“撃ちてしやまん”型よりも、最後にいくつか並べたような唄の方に惹かれるようになりました。その理由は、建前よりも真情ということなのでしょうか。理由は、はっきりとはわかりませんが、やはり人の心をうつものには、文章であれ、演説であれ、その底流に、虚飾がないことが必要なのではないかという気がしてきたのです。

『青葉しげれる桜井の』は、昭和22年、岩手から茨城に移った頃、付近の少女たちが替え歌にして歌っていました。その歌詞は、いま口にするのも恥ずかしいものですが、以後、60年以上もの自分の人生を方向付けるほどの影響力を持ちました。

こうしたことは、その後中学生になって、三橋美智也や春日八郎の流行歌についてもおなじことでした。つまり、我々子供が、当時学校で教わったのかもしれない『道徳』には、人間の感情を動かし鼓舞するものが感じられなかったのでしょう。

ばかばかしい話になりますが、当時、春日八郎の唄の文句をいくど唄ったことでしょうか。こうした文句が、当時の私たち田舎の少年の共感を呼んだように思います。大げさに言えば、その歌詞は、愚かな少年にとっては、人生論的意味さえもったような気がします。まあ、それらのひとつを引用しておきましょう。


  花のふるさと 出た時は
  (ええ)出た時は
  はずんでいたっけ 影法師
  今じゃ巷の 坂道を
  泣いてよろけて 口笛で
  いつか忘れた 忘れたなぁ


  遠いあの娘を つい呼んだ
  (ええ)つい呼んだ
  許しておくれよ 影法師
  泥にまみれた 胸底に
  紅のたすきが 沁みてきて
  やけに恋しい 恋しいなぁ


  こんな男を 見捨てずに
  (ええ)見捨てずに
  かわいい奴だよ 影法師
  せめてお前と 二人して
  うずらなく里 ふるさとへ
  明日は帰ろう 帰ろうなぁ


恐らく、実情は、民主主義と平和主義を説く学校教育の『道徳』と父母の語る『人の道』とに囲まれて、戦後の流行り唄の歌詞に、かたちの定まらない自分の情緒にやり場を求めていったのだろうと思います。


※ああ、『日本陸軍』でしたね。この曲については、これで二度もひとから誤りを指摘されてしまいました。蜉蝣さまからは、これ以外にもいくつかありますが、私の場合は、正式の題名は、すべて、大人になってから軍歌集で覚えたものですから、ごっちゃになってしまっているのです。歌っていた親父は、曲名なんて一度もいってくれませんでしたからね。


晩年の父は、街宣車で田舎に時折やってくる赤尾敏ら右翼の演説を聴いて、盛んに拍手をしていたという話を死後になって聞きました。丙種合格で戦地にいけず、佃島の石川島の徴用工に甘んじていた父でしたが、左翼思想に染まっていたわれわれ兄弟には、一言も意見がましいことを口にすることなく逝ってしまいました。叶うことなら、その父に、一言、“お父さん、済まなかった!”と、いま詫びをいいたい気持ちです。お盆が近いせいでしょうか、話が飛んでしまいましたね(笑)。
 

軍歌、思ひつくままに

 投稿者:蜉蝣メール  投稿日:2010年 8月14日(土)23時32分21秒
返信・引用 編集済
    しかばねさん

何度書いても、このハンドルでお呼びすることに抵抗を感ずるのですが・・・・


叔父上が山田灣で戰死なされた由、記憶では昭和十九年頃に館山海軍航空隊の水偵(水上偵察機)の分遣隊が山田灣に配置されてをりましたが、或いはそのご關係でいらしたのでせうか。

私の子守歌はなぜか戰前の唱歌と軍歌ばかりだつたやうです。

「皇太子樣お生まれなつた」も老母が唄つてゐるのを聞いた記憶があります。
昭憲皇太后の御歌に奥好義が作曲した「金剛石」もよく聞かされました。(私が餘にも勉強の嫌ひな子供だつたからかも知れませんが)

青葉の笛、鎌倉、川中島、兒島高徳、七里ヶ濱哀歌、二宮金次郎、櫻井の別れ・・・

背筋をぴしりと伸ばし、ピアノを彈きながら歌ふ母の姿は今も目に燒付いてゐます。覺えやうとした譯でもないのに今でもそれらの旋律は直に浮びますし、歌詞の殆どを覺えてゐるのは不思議です。やはり歌詞が文語體だからでせうか。

”文學少女崩れで戰後キャリアウーマンの嚆矢”と自稱する老母は、戰中 母校の女高師の教員を勤めてゐたのですが、その頃動員先の縫製工場で教へ子たちとよく歌つたのだと。
廣瀬中佐(轟く砲聲、飛び來る彈丸・・・)は、戰前は少女たちが「おぢやみ」(關東でいふお手玉)をする時の唄だつたとも聞きました。


亡父は醉つ拂つて高歌放吟するといふより、折々に口遊むと云つた方が適切だつたやうです。手酷い不渡を喰つた時や、談合が崩れて”叩き合ひ”になつた時なぞ、決つて低い聲で「元寇」を唄つてゐましたつけ(笑)
五歳違ひの弟と私が「水雷のおつちやん」と呼んでゐた亡父の豫備學生同期の方が訪ねて來ると、二人して茶碗酒を呑みながら唄ふのが「上村將軍」でした。しみじみと・・・・といふ言葉がよく似合ふ歌ひ方でしたが、私の好きな軍歌の一つです。


海軍陸戰隊
『江湾路上儼然と、空にひらめく軍艦旗、これぞ同胞三萬の、命を護る陸戰隊・・・』
昭和十二年 第二次上海事變の時に發表された曲ですが、當時は國民歌謠と呼ばれてゐたと思ひます。

しかばねさんには申し譯ないのですが、昭和の軍歌、戰時歌謠は正直あまり好きではありません。
しかし防人のうたは好きです。歌手は奧田良三、二十年くらゐ前まで現役で歌つてをられたやうです。愛國行進曲、空の勇士なども吹込んでゐたと記憶します。

どうもいけませんね、際限がありません。
このままだと知つてゐる限りの軍歌と戰時歌謠を夜つぴて書き竝べてしまひさうな(笑)



追伸

書かずに置かうかとも思ひましたが、それでは却つて大兄に失禮な氣が致しまして。

天に代りて不義を討つ・・・は、軍歌「日本陸軍」の一番ですね。

陸式は嫌ひですが、此の歌・・・・特に「凱旋」の項の歌詞は好きです。

(凱旋)
内には至仁の君在まし
外には忠武の兵ありて
我手に握りし戦捷の
誉は正義の凱歌ぞ
謝せよ国民大呼して
我が陸軍の勲功を

やはり私は(父母の影響大なるが故か)軍歌は昭和期のものより、明治・大正期のものの方が好みに合ふやうです。
 

軍歌について。。。

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月14日(土)18時34分8秒
返信・引用
       蜉蝣さん クロさん

海軍には、特別の思い入れのあるお二方ですから、お話も尽きないことでしょう。私の親戚では、横須賀の伯父が連合艦隊の旗艦『三笠』の艦員だったこと、もうひとりの叔父が終戦間際に、山田湾で戦死していることなどがあげられます。

自分はといえば、五十近くになるまで、戦後の風潮に流され、愚かしい日々を送ってきたのが実情ですが、当時ほれ込んでいた吉本隆明が、彼の父が愛唱する『橘中佐』の文句をいい詩であると語っていたこと、わたしの父が仕事をしながらうたっていた軍歌『歩兵の本領』“天に代りて不義を撃つ”ですが、やはり、こうした国民感情を無視して歴史を考えることはできないだろう、とそういうことを漠然と考えていたことを想いだします。

当時は、軍歌以外にいいメロデイーがなく、昭和25年ぐらいまでは、運動会の行進曲も軍歌からの借り物で、そのほかでもよく替え歌にしてうたったものでしたが、そのなかには傑作と称すべきものもいくつかありました。引揚げ先の母の郷里から離れる際に、父が作った『ラバウル小唄』の替え歌をみなで駅頭でうたった記憶があります。我々の世代では、軍歌は、もう身に染み付いてしまっているもののようですね。


※さきに『皇太子様お生まれなった』をとりあげましたが、これも亡母がよくうたっていた曲でしたが、最近になり、これを歌った当時の国民の皇室に対する思い、その様子がどうにか映像を結ぶ感じになり、改めてそのよさをお話したかったというわけです。


ほかにも時間を経て再認識されてきた軍歌がいくつかありますが、その一つに『海軍陸戦隊』があります。海軍びいきということで私の頭に浮かぶのは、いつも蜉蝣様ですから、一度それをお話する機会があることを望んでいましたが、今回それが叶いました。。


※このついでに、この三ヶ月の間に、いい曲だなあと感銘を受けた軍歌を挙げてみます。


  防人のうた  涯なき泥濘  月の塹壕  音信はないか

最後の3曲は、小野巡という方がうたっていますが、なんとも心細い声で、今更のように『軍歌』の真髄とは、かくなるものかという思いがしています。
 

Re: 海軍喇叭譜

 投稿者:管理者メール  投稿日:2010年 8月14日(土)16時24分56秒
返信・引用
  > No.101[元記事へ]

蜉蝣さんへのお返事です。



 「海軍」に釣られて、遠路はるばる河内からお出でなさいましたね。
 いや、期待したとおりでまことに結構であります。

 海軍さんについては、わたくしもYouTubeにアップしてありますので、時間があればご笑覧ください。

 http://www.youtube.com/view_play_list?p=3398C63D0B52DBE0
 

海軍喇叭譜

 投稿者:蜉蝣メール  投稿日:2010年 8月14日(土)15時13分54秒
返信・引用 編集済
    クロさん

こんにちは。
海軍先生のお話を樂しみに拜讀してゐます

それではお言葉に甘えて。

>それも普段聴き慣れた「君が代」とは音調が違うので、我ら児童たちは笑い転げながら口々に「先生、間違うとる」。真剣な表情の先生曰く、「なんも知らんくせに馬鹿言え。こりゃ戦(いくさ)ん時の《君カ代》ぢゃ」。<

クロさんには既にご存じかも知れませんが、いはゆる「海軍喇叭譜の君が代」と呼ばれるものですね。

こちらの頁にあります。

http://www.youtube.com/watch?v=n_rnzQsfuio&feature=related

三曲目の「軍艦旗掲揚」がそれです。

陸上自衞隊と舊陸軍の喇叭譜は異りますが、海上自衞隊では現在も舊海軍の喇叭譜を繼承してゐます。


二曲目の「食事」にはクロさん、しかばねさんもお聞き覺えがおありでせう。
さう、今でも「正露丸」のCMのバックに流れてゐます。
失禮、現在では「セーロガン」でした。
元々は「征露丸」だつたんですけどね。

詰らぬ半疉で申し譯ございません。

クロさん、どうぞ、お續け下さい。
 

書き込み手順を間違えました。

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月14日(土)14時00分3秒
返信・引用
    
 外は灼熱地獄であろうとも、冷房(故障してたが一大決心して買い換えた)の効いた部屋で好き勝手に書き込みが出来る。いやはや、まことこの世は極楽でありますよ。

 さて、ここからあとが申し上げたかったことです。

 書き込み手順を間違えてしまいました。すみません。
 というのも、書き手である自分の脳内抽斗には既に一連の物語となって格納されてはいても、読者にとってはまったく与り知らない話を聴かされるわけで、断片的に持ち出されても「それがどうかしたの?」との感を否めないことに気がつきました。

 そこで次稿より、まず概略・いきさつといったものを説明した上で、そののち個別事例を採り上げていくようにしたいと考えます。
 ホームページ丸写しのズルい遣り方ではありますけれど。

 なお、書き込みの邪魔をしてはならない、との思いから遠慮なさっている向きがあるとすれば、それは誤解です。
 わいわいがやがや何でもかんでも、が当方の望むところであります。
 まったく関係ない別の話題、大いに結構。好き勝手に思うところを書き込んでやってくださいませ。

ありがとうございました。
 

忘れ難き人々 『海軍先生』の巻 その二

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月14日(土)11時30分1秒
返信・引用
    

 亡父とはまったく逆で、“栄光の海軍”よろしく何かにつけて軍隊での想い出話に花を咲かせなさる始末。それも、子供が期待するようなご自身の武勇談では決してなく、それはそれは厳しく辛いところで弱虫揃いのお前たちにはとても務まるまい、といった類のものでした。兵隊としての位(くらゐ)がどうだったかは知りませんが、その“厳しく辛い海軍”に在籍(合格)したことを最大の誇りとなさっている風情がありました。

 いきさつはもう忘れましたが、ある時、喇叭を持ち出してこられて「君カ代」を吹いて聴かせてもらった覚えがあります。喇叭手ではなかったのでしょう、聴くに堪えないほど下手くそ。それも普段聴き慣れた「君が代」とは音調が違うので、我ら児童たちは笑い転げながら口々に「先生、間違うとる」。真剣な表情の先生曰く、「なんも知らんくせに馬鹿言え。こりゃ戦(いくさ)ん時の《君カ代》ぢゃ」。

 児童心理というのは不思議ですね。武勇談を聴くより厳しく辛いところと言われたほうが、自分も堪えられるかどうか挑戦してみたい、という気になってしまうんですね。まあ、そんな変わり者はわたしだけだったかもしれません。それで以て、身内に海軍関係者は一人もいないにも拘わらず、すっかり海軍ファンになってしまいました。
 

文章も練られているし、傑作が期待されます。

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月14日(土)09時25分24秒
返信・引用
  本格的な『わが忘れ難き人々』が始りそうですね。
じっくり読ませていただきます。永久保存版を目指してください。
 

忘れ難き人々 『海軍先生』の巻

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月14日(土)01時00分1秒
返信・引用
   ひと言で言うなら、とにかく型破りな先生です。就学16年間のうち、同型の先生にはついぞ出会うことはありませんでした。部分的に観れば、幾人かの恩師のなかに類似を観ることはできますが、師弟関係抜きの一個の人間として観た場合、今なお別格的な存在です。

 はじめに、もう半世紀(50年)以上前のことなので、記憶が後の出来事と混同していたり、部分的には思い込みのあまり脳内で勝手に創り出してしまった可能性が無きにしもあらず、であることをお断りしておきます。と申しますのも、数年前に最も仲の良かった同級生と思い出話をした際、「そうぢゃったかぃのう」と、お互いの記憶にかなりの食い違いがありました。

 記憶はあんまり当てにならないものですね。昭和39年から45年、つまり高二から大学にかけての六年間、筆無精に似合わず日記をつけていたのですが、いま読み返すと「へえ~、こんなことしたかいな」という意外な発見があります。人に見せるために書いたわけではなく、まったく私的なものであって、読む人(つまり自分)にウソを吐いて後来を欺く必要などあり得ない。なんとなれば、日記が事実で記憶が間違いであるとしか考えられない。

 妹との昔話でも「ニイちゃん、悪いことばっかりしてたじゃない。」と無情な冷たい返事。結局、記憶というのはおのれに都合の良い解釈が施されて脳の抽斗に仕舞い込まれているのでしょうね。

 掲題について補足しますと、当時からそうお呼びしていたわけではなく、先生が海軍出身だったことから、「海軍教育やかくありなん」との思い込みがあって自分勝手につけたものです。因みに当時、先生にお付けして差し上げた渾名が「ニグロ」または「土人」。それほど肌艶が健康色でいらっしゃったということ。

 しかし、間違っても先生に面と向かってそう言えるほどの強者は、さすがに居ませんでした。けれども蔭に隠れた男児どもは盛んにそう呼んでは憂さを晴らしてたのですから、何かと言えば直ぐ御注進におよぶ女子連を通じて先生の耳にも届いてないはずはないのですが、それを理由として叱られた記憶はありません。男児にはありがちなことと、気にも留めず半ば黙認していたのでしょう。

 なぜそう思うかと申しますと、先生が悪童を叱るときの常として、授業中にみんなが注視する前で、叱る原因と同じことを敢えて先生に向かって言わせまたは遣らせてみる習性がありましたから。

 この教室での芝居がかった演技が実に上手かった。叱るときは高い位置から見下ろすように、相談を受けるときは児童と同じ位置になるよう腰を屈め、謝るときは児童に対して土下座も厭わない、という具合。

 一例を挙げますと、わたくしは乳児の頃に片眼を失明しているのですが、子供はおのれと違う容姿に興味を持つもので、盛んにどうしたのかと訊くのですよ。もちろん、彼らに悪気など皆無。当方は、知らないことをしつこく訊かれてどうしていいかわからず、とうとう泣き出したことがありました。それを知った先生はどう対処されたと思われます?

 午後の授業で、何とわたしに向かって「おい、大きく目を見開いちワシのほうを見ちょらんか、馬鹿たれが。」だって。そしてハッと何ごとかに気づいたようにしてわたしの傍に駆け寄り、「先生は言ってはいけないことを言ってしまいました。先生を気が済むまでこづいて(殴って)ください。言いつけは何でもします。ぢゃけん、どうか勘弁してやってください。もう二度と言いません。」と土下座して謝るんですね。

 みんなが見守るなかですから、わたしの眼に関して尋ねることは、先生でさえ謝らなくてはならないほど大変なことになる、ということが児童たちに身に沁みて伝わったはずです。以来、訊かれることは一切なくなりました。

この稿は、ひとまずここまでとさせていただきます。

ありがとうございました。
 

それは。。結構でした

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月13日(金)17時52分31秒
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   いまから15年ほどまえの体験ですが、かつての学友に、戦前の唄、それも軍歌がほとんどでしたが、それをコピーして送りました。送るということは、共感を求めてということですが、果たして相手は、共感どころかつよい反感を覚えたようでした。いま考えれば、二人は、ともに丸山真男を尊敬していたような間柄でしたから、当然の結果でした。

いま彼は、中大で史学の名誉教授をしていると思うのですが、あのときのことを想いますと、過去についての情緒を共有しないもの同士の間では、共通の歴史認識は成立しえないということです。彼が書いた歴史の本をうまく理解するには、彼の説く理論よりも、まず彼の感性的世界を踏まえることが必要だろうと思うのです。

歌にもいろいろな種類がありますが、とりわけ軍歌に対する好悪は、歴史を語るときに、決定的な作用をそれぞれの認識に及ぼすだろう思います。

このことは、なにも歴史を語る場合に限られたことではないでしょう。
新しい人との付き合いを始めるときに、まず相手に尋ねるべきことは、そのひとの考え方よりも、物事に対する感じ方の方であるといえましょう。そういう意味で、今回、『それは、結構でした』と申上げたわけです。皇太子がお生まれになった当時の人々の言いがたい喜びが感じられる歌です。いい歌詞、いい調べ、二人も、全力をあげて、この曲を作ったことが感じられます。
 

Re: YouTube

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月13日(金)16時44分0秒
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  > No.94[元記事へ]

しかばねさんへのお返事です。


 ご紹介くださって、ありがとうございます。このCDでしたらわたくしも所有しております。平山美代子らビクター少女童謡歌手連の歌ですよね。YouTubeに既出でなければ自分がアップしようかと考えていたほどです。

 もちろん、戦後生まれの自分は、歌われていた頃の有様を知りませんが、今上陛下と同年生まれで母方末っ子の今は亡き叔母が、現皇太子殿下がお生まれになった頃、ウチの妹に歌って聴かせていましたよ。叔母だって歌われてた頃は生まれたばっかりで何もわからなかったはずですから、後年知ったのでしょうけど。

 何せ、懐メロファンを自認しておりますので、こういった話題はお任せください。
 

YouTube

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月13日(金)15時24分29秒
返信・引用
  最近の私の家の流行り歌を、ぜひ、クロ様にお聴きいただきたいと思います。

コピペの技術がないので申し訳ないのですが、YouTubedeで、【皇太子様お生まれなった】を聞いていただけないでしょうか?わたしのCDとおなじ少女が歌っています。なんど聞いても、飽きません。

  作詞、北原白秋、作曲、中山晋平
 

Re: 労働運動時代

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月13日(金)13時46分2秒
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  > No.90[元記事へ]

しかばねさんへのお返事です。


>>クロさんの労働運動時代には、なかなかの武勇伝がありそうですね。時代ということもありましょうが、かなり戦闘的に活動しておられた雰囲気が臭いますね(笑)<<

 こうも次から次へと御馳走(?)を並べられたら、ヨダレが止まらなくなって、なかなか本論『忘れ難き人々』に進めませんね。

 実を申しますと、わたくしの物の観方、考え方の淵源を辿れば、小四時担任の訓導あったればこそ、と言っても過言ではないのであります。それも、教えていただいたのではなく、自ら学び取ったという良い意味での自負心があるので、そう簡単にメッキが剥がれる(転向する)ような性質のものではございません。身体に染み着いておりますから。

 というわけで、ホームページに書いたことの焼き直しになって恐縮ですが、次稿からこの恩師について書いてみたいと思います。

ありがとうございました。
 

月形龍之介の黄門様

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月13日(金)11時24分16秒
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  たしかに見たことがあります。実物の絵は、あれほどの美男子ではなかったと思いますが、じつにきりりとしたサムライらしい姿であったと記憶しています。たしかに、あれと比べますと、戦後の黄門さまは、どこか民衆に愛される顔をしていますね。無論、私も、月形龍之介のほうが好みですけれど(笑)。

ところで、私は、戦争引揚者でして、母の実家の岩手、その後、茨城のざいに移りました。小学校の一年のときから高校卒業までの12年ですね。高三のときの担任が歴史の先生でして、右翼だという噂でしたが、その方が『水戸黄門』の著書を持つ人格者であることを、五十過ぎになって、初めて知りました。愚かなことです。
 

Re: 利己よりも利他ということ

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月13日(金)11時15分24秒
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  > No.88[元記事へ]

しかばねさんへのお返事です。

 いや、わたくしが思い描いているのは、そうした掟とか不文律といった抑圧的で受動的なところから発した感情である可能性も否定はしませんが、むしろもっと自発的で能動的なイメージです。文字でそのことをお伝えしたくても、妙案が浮かばず我ながら情けなくなってしまいます。

 う~む。どう言ったらいいか・・・。そうそう、「お役に立つ」という表現が適当かもしれません。つまり、相手の喜ぶ姿を観て自分も嬉しくなる、こういう図式ですね。自分が欲しいものを手に入れたとして、それは一時的におのれが嬉しいだけですが、他人に為したことが喜ばれる(お役に立つ)ということは、相手も嬉しいし、自分も嬉しい相乗効果を伴っているということです。

 それもこれも、人間は集団のなかでしか生きられないという諦観から生まれた日本人独特の幸福観(「感」ではなく)ではないだろうかと考えています。
 

労働運動時代

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月13日(金)10時37分43秒
返信・引用
  クロさんの労働運動時代には、なかなかの武勇伝がありそうですね。時代ということもありましょうが、かなり戦闘的に活動しておられた雰囲気が臭いますね(笑)

私も、そういう風潮の中で日をおくった世代ですが、いまの良識と、当時のそれとの懸隔はさることながら、どこか、両者に、一脈似通ったものがあるのも感じられます。

それを一言でいうのは容易ではないでしょうが、いうまでもなく正義感という言葉でくくることはできましょう。しかし、正義感だけでは具体性に欠けますので、もうすこし、これを分析してみてはいただけないでしょうか。
 

電波の威力

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月13日(金)10時14分1秒
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  ☆ しかばね 様


 こんにちは。

 里見浩太朗ですか。わたしも好きな俳優さんの一人です。が、最初は助さんだったかの役柄でしたよね。何だかエスカレーター式の出世を遂げたみたいに感じたものです。

 映画やテレビドラマ、特に時代劇では、ある特定の俳優さんとその役柄が結びついてしまって、のちにリメイク版が登場して誰か違う俳優が演じると、別物を観るような錯覚にさえ陥ります。

 自分の場合、強い印象というほどではありませんが、この黄門様は月形龍之介(昭和三十二年・東映)です。悪役の多かった人ですが、昔の映画の悪役は、悪人なりの仁義や風格を備えていましたからね。そして、俳優と言えば”スター”と呼ばれて、自分たちの手の届かない憧れの存在でしたが、今はどうでしょう。

 テレビを視なくなったわたくしでありますが、一度だけテレビに出演したことがあります。といっても、ニュースで採り上げられたというだけの話ですが。

 「週休二日制導入に伴う労働時間延長反対」という名分を建て、組合で会社を訴えたその記者会見がニュースになったのです。ちょうど、先帝陛下がおかくれになったときで、共産党系の顧問弁護士が「天ちゃん(←確かにこう言った)と重なったらニュースにしてもらえない」という判断で一週間先延ばししたほどです。「週休二日制」は時の話題でしたから、全TV局の電波に乗りました。

 当時の勤務地は中野だったのですが、翌日、昼食時や訪問先で出会った人から「あらっ? あんた、昨日テレビに出てたでしょ。」と口々にいわれました。

 いやあ、電波の伝播力は凄い。

 あまり先延ばししてても仕方がないので、次稿辺りからメインテーマに入ることに致しましょう。


ありがとうございました。
 

利己よりも利他ということ

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月13日(金)08時38分54秒
返信・引用
   >日本人は利己に非ず利他に喜びを感じる国民ではないのか。。。

もしそうならば、それは、農作業における共同作業の必要、一般的には、共同体防衛のために構成員は身命を賭すべし、という共同体における不文律によるものでしょうか。

日本の青年を、あの決死の特攻攻撃に駆り立てたのも、おなじ伝統に基くと思います。
 

里見浩太郎

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月13日(金)08時09分32秒
返信・引用 編集済
    おはようございます。

話題というものは、まるで連歌の様につぎつぎに飛び火していくもののようですが、TVの『水戸黄門』役についていえば、私の場合、東野栄治郎の黄門様よりも里見浩太郎のそれの方がピント来ますね。やはり、庶民の上に立つ人の人相は、素朴な百姓顔よりも公方様顔の方がいいように思います。人様の顔を云々するほど立派な顔を持っているわけでもありませんが、やはり、TVの黄門様には、やはり格調というようなものが感じられたほうがいいと思います。無論、現代の役者がこういう風貌からはるかに遠ざかりつつあることについては、同感です。
 

Re: 一億総白痴化

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月12日(木)22時14分28秒
返信・引用
  > No.85[元記事へ]

しかばねさんへのお返事です。


 「遅筆症」と言った舌の根も乾かぬうちに、こう矢継ぎ早に書き込んだのでは、はからずも“仮病”であることがバレてしまいましたね。

>>私も一人でいるときは、ほとんど見ませんが、連れ合いが古くからの『水戸黄門』ファンでして、最近では、いっしょに眺めて、いっしょに涙を流したりなぞしています。そうして、ああいうひとがいてくれた時代だったから、江戸時代は、あれだけながく続いたんだねなどとわらい合っています。<<

 わたくしも、リタイアした当初、TBS-TVで一連の旧作が再放送されていたので、ヒマにあかせてず~っと視ておりました。しかし、興味深いことに、連続して視ていると番組の作りにも時代が反映していることがわかるんですね。

 第一期の東野英治郎が演じていた頃は、自分が子供時分に観た東映時代劇との連続性を確実に感じましたが、後期の石坂浩二辺りになるともうダメ。自分が持っていた時代劇のイメージとはまるで別物です。

 どういうことかを一例で申しますと、日本人は利己に非ず利他に喜びを感じる国民ではないのか、という持論が自分にあって、古い作品ほどそれを裏付けるような筋書きになっているんですね。ところが、後期へ行くほど、現代人が丁髷を結っただけではないか、と思われるような今風の内容に変質してしまっているんですよ。言葉遣い然り、時代考証もいい加減。甚だしきはマニキュアを付けたままの町娘が登場したりしました。

 まあ、こういう話は好物の範疇であって、際限なく続く危険性もありますので、まずは手始めにこのくらいにしておきましょう。

 ありがとうございました。
 

Re: 一億総白痴化

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月12日(木)21時34分5秒
返信・引用
  > No.84[元記事へ]

テレビを撤去されておられるとのこと、立派なものです。私も一人でいるときは、ほとんど見ませんが、連れ合いが古くからの『水戸黄門』ファンでして、最近では、いっしょに眺めて、いっしょに涙を流したりなぞしています。そうして、ああいうひとがいてくれた時代だったから、江戸時代は、あれだけながく続いたんだねなどとわらい合っています。

もしテレビがなければ、どんなに時間がゆっくり流れることでしょう。
のうたりんのタレント、鳴り物入りで語られる声、聞きたいところにくると、必ず割り込んでストップをかけるCM、もしテレビがなければ、もっとゆるやかな時間を過ごせることだろうと思いますね。
 

一億総白痴化

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月12日(木)21時05分59秒
返信・引用
  > No.83[元記事へ]

しかばねさんへのお返事です。



>>NHKは、またもくだらない戦争特集番組を放映していますね。
クロさんは、ああいう話題がお好きだと思いますので、どうぞ遠慮なく俎上にのせて下さい。私もそれなりに対応させていただきます。<<

 ごめんなさい。浮世離れした生活を送っているもので、テレビはまったく視ておりません。アンテナを外してしまいました。無料でもらえる予定だった地デジチューナーの配給もお断りしました。

 それはそうと、昔、電気紙芝居と揶揄されたテレビの隆盛に、「一億総白痴化」と警告した大宅壮一や暉おか康隆教授の「女子大生亡国論」が話題になりましたね。まさに現実のものとなってきたということでしょうか。未だ学生だったその当時は、そんな馬鹿な、と軽く考えていましたけど。

 テレビ創生期のNHKも、民放に比べれば面白可笑しい番組はなかったものの、公共放送と呼べるだけの真面目な創りで、今ほど左翼偏向していた印象はありません。

 津田先生ならずとも、世の中は動かぬように見えて、やはり少しずつ動いているのでしょうね。

ありがとうございました。
 

投函メールですか。

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月12日(木)20時12分34秒
返信・引用
  つまり、私が、十二回の修正をしたというわけですね。
やはり、これからは校正した上で、投稿することにいたしましょう。(反省)

それから、話題についてですが、とらわれずに参りましょう。
折々の感想の途切れたときに、『忘れ難き人々』について書き込んむということにいたしましょうか。ここはクロさんのお城ですから、そちらのお考えで仕切るのが当然です。

NHKは、またもくだらない戦争特集番組を放映していますね。
クロさんは、ああいう話題がお好きだと思いますので、どうぞ遠慮なく俎上にのせて下さい。私もそれなりに対応させていただきます。
 

Re: 忘れ難き人々

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月12日(木)18時21分4秒
返信・引用
  > No.81[元記事へ]

しかばねさんへのお返事です。

 おお、びっくりした。
 先ほど郵便受を覗いたら、12通もの投稿お知らせメールが届いていたので、閑古鳥ならぬ“あらし”さんでも大挙してお見えになったかと思いましたよ。

 趣意、承りました。
 ただし、怖ろしいほどの遅筆症を患っておりますので、若干のご猶予(数日)を賜りたく存じます。

 有り難うございました。
 

忘れ難き人々

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月12日(木)17時34分35秒
返信・引用 編集済
  先ほど、福岡時代のお話を伺いました。
自分にとって、自分を語ることは、もっとも易しそうにみえて、実際にはかなり難しいことです。それは、いまの自分を正確に認識することが、どれだけ難しいかを考えてみればわかることです。

自分を語ることに比べれば、年来の友人とくに学生時代の親友を語ることは、ずっと容易いことのように思われます。そういうことで、ここでクロさんに、“わが忘れがたき友人、恩師”を語るというテーマで、これまでの人生のなかで、とくに印象の深かった方を取り上げていただき、お話をしていただいてはどうかと思うのですが、如何でしょうか。

私にも、当然ながら、そうした方々がかなりいますが、まずクロさんから語り始めてくださいませんか。もちろん、むかしの恋人が登場することを期待しています。



※『註』私は、掲示板に書き込んでから、それを見直して修正する習性があります。どうか書き込みをご覧のあとに、また見直してみて下さい。別のことを書いているということが、ままありますので。。。
 

どうぞごゆっくり。

 投稿者:クロメール  投稿日:2010年 8月12日(木)14時03分1秒
返信・引用
  > No.79[元記事へ]

しかばねさんへのお返事です。

 ようこそいらっしゃってくださいました。
仲間といっても、CH櫻掲示板で知り合った人たちばかりですから無礼講で参りましょう。
彼の実存主義者さんも別HNで、たまの息抜きにいらっしゃってくれてます。

 管理者には“特権”があって、投稿があるとメールで知らせてもらえます。
それが半年近く投稿メールが来なかった次第。
まことに願ったり適ったりであります。

 取り急ぎ、ご挨拶のみにて、失礼させていただきます。
 

お邪魔いたします。

 投稿者:しかばねメール  投稿日:2010年 8月12日(木)13時48分8秒
返信・引用 編集済
    みごとに設えられたものですね。新しくていいものは、畳と女房だと聞きますがほんとに見事なものです。ここで閑古鳥が鳴いているとも思えませんが、いずれ啼き出すまでの間、私的なお話ができるでしょう。まあ、そういいましても、お仲間もいらっしゃることでしょうから、好き放題もできませんけれどね。ええ、その程度の常識は、弁えております。三時過ぎからでも、のんびり書き込ませていただきます。よろしくお願いいたします。

新たな気分で、ふるいお話もできようかと存じます。
 

レンタル掲示板
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