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Re: <真理の追究>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 3月10日(木)10時41分5秒
返信・引用 編集済
  > No.180[元記事へ]

クロ様

> 絶対真理》があるにせよ、その“同じもの”に対してさえ、人それぞれに見え方、感じ方、考え方があるのではないか

おっしゃる通りですね。
真理がそうであるように、神の多様性もまた、それをみる側の多様性によって生じるのだと小生は思います。
そして、そのように感じられる人々が増えるということは、我々の世代の文明、文化にとって、好ましいことに違いありません。
意識が進化することによってのみ、そのように捉えることが可能であるからです。
未熟な意識ほど、各々の神(=真理)を区別したがるものではないでしょうか。
 
 

Re: <真理の追究>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 3月 9日(水)23時00分28秒
返信・引用
  > No.179[元記事へ]

☆ SHO 様

 こんばんは。

ご自身のペースでお相手していただければ幸いです。

 お気遣いいただき、恐縮です。

確かに、己が真理だと思っているものが、他者にとっても真理というわけではありません。
しかし、そのような相対性を超えたホンモノの真理がどこかにあるに違いないと小生は信じています。
つまり、真理というのはお山のてっぺん。
てっぺんにたどり着くまでは、同じ山を登ってはいても、高さや場所によって景色が違うものです。
ゆえに、本当は仏教のいう真理も、哲学的真理も、あるいは科学的真理にしても、同じところを目指しているのではないでしょうか。

 すみません。わたくしの書き方が拙くて、違ったニュアンスで伝わってしまったようです。

 この世に“絶対”は存在しない、などとはまったく考えておりません。《絶対真理》があるにせよ、その“同じもの”に対してさえ、人それぞれに見え方、感じ方、考え方があるのではないか、と言いたかったわけであります。

以上、若干の説明を加えさせていただきました。

 

Re: <真理の追究>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 3月 9日(水)11時49分40秒
返信・引用 編集済
  クロ様

コメントありがとうございました。

>  他事にかまけて三日間の御無沙汰をしてしまいました。

どうぞお気になさらないでください。
ご自身のペースでお相手していただければ幸いです。
小生もそのようにいたすつもりですし(笑)。

>  相克する神”あらば、“相生する神”があってもよい

ですね。

>  お題の《真理》も人それぞれに違っており、己の《真理》は必ずしも他者の《真理》ではないように思います。仏教で言う《真理》と哲学的《真理》では意味するところが違う

確かに、己が真理だと思っているものが、他者にとっても真理というわけではありません。
しかし、そのような相対性を超えたホンモノの真理がどこかにあるに違いないと小生は信じています。
つまり、真理というのはお山のてっぺん。
てっぺんにたどり着くまでは、同じ山を登ってはいても、高さや場所によって景色が違うものです。
ゆえに、本当は仏教のいう真理も、哲学的真理も、あるいは科学的真理にしても、同じところを目指しているのではないでしょうか。
 

Re: <真理の追究>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 3月 7日(月)12時39分44秒
返信・引用
  > No.177[元記事へ]

☆ SHO 様

 こんにちは。

 他事にかまけて三日間の御無沙汰をしてしまいました。

神々もまた、もとはたった一つの神がそれぞれに多様性を獲得した姿であるという解釈だ。
これは神道、ヒンズー教、双方に見受けられるが、そう考えれば、旧約、新約、イスラムの神は皆、同じ一つの神であるとみなせる。
相克する神”をつくり出したのは、各々の組織に寄生する人間の都合に過ぎないのではないだろうか。

 難しいことはわかりませんが、御説を肯定的に捉えることができます。五行説では、「相克」の裏側に「相生」があるとか。つまり、“相克する神”あらば、“相生する神”があってもよいのではないでしょうか。

 お題の《真理》も人それぞれに違っており、己の《真理》は必ずしも他者の《真理》ではないように思います。仏教で言う《真理》と哲学的《真理》では意味するところが違うように。

 まさに 鰯の頭も信心から ですね。

 
 

<真理の追究>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 3月 4日(金)12時31分26秒
返信・引用 編集済
  古の時代、神学、哲学、科学、真理を追究せんとする人の営みは、それぞれに未分化であった。
ところが、科学の目覚しい発達の恩恵に浴するようになったことで、近代、現代を通じ、前二者の相対的な地位が凋落したかのようだが、依然として真理探究にそれらは欠かせない。
今日、量子物理学の登場と、その業績の数々によって、それまで神学や哲学のみの卓見であったものが、科学的事実として脚光を浴びる時代となった。

ベルの不等式の破れによって明かされた、存在の一体性に関する真実は、真理探究の道において、信仰や哲学の追究が不可欠であることを、ふたたび我々に思い起こさせる事態となったわけである。
鋭敏な者であれば、これにより人類の歴史においては極めて重要な転換点を迎えたことを感じられるはずだ。

宗教といえば、迷妄や思い込みと同義であるといった解釈が多くの人々にまかり通っている昨今ではあるが、しかし、科学の最先端を知れば知るほどに、そこには学ぶべき何かを見出すことができるといえそうだ。
さすれば、信仰に関しても、その教えるところを注意深くよりわけていく必要が生じる。

思想追究には、何故に利己的であってはならないかを納得せしめる信仰の発掘が不可欠なのだ。
汎神論的に考えれば、多神教もまた一神教とみなすことができる。
神々もまた、もとはたった一つの神がそれぞれに多様性を獲得した姿であるという解釈だ。
これは神道、ヒンズー教、双方に見受けられるが、そう考えれば、旧約、新約、イスラムの神は皆、同じ一つの神であるとみなせる。
“相克する神”をつくり出したのは、各々の組織に寄生する人間の都合に過ぎないのではないだろうか。

 

Re: <不完全な思想>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 3月 2日(水)14時48分52秒
返信・引用
  > No.175[元記事へ]

クロ様

>  世の中は複雑怪奇にしてわからないことだらけ。我が信ずる道を行くしかない。

おっしゃる通りです。

>  科学全盛の世とはいえ、すべてが解明されたわけではない。人智ではどうにもできない事象がまだまだ数多くある。自分ではどうしようもない事態になったとき、何かに頼りたい(信じたい)気持になる。これが信仰の出発点だと思っています。

まことにその通りです。
自身が何を信じて生きているのかを問いただす作業は、時として己を傷つけずにはおれないかもしれません。
なぜなら、小生も含め、多くの人間は自らが信じるものに対して矛盾と葛藤を抱えながら生きているからです。
実際、純粋に生きるのは難しい。
純粋なる意識にたどり着くとき、人は聖者となるに違いないと小生は素朴に信じています。
 

Re: <不完全な思想>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 3月 2日(水)13時11分41秒
返信・引用
  > No.174[元記事へ]

☆ SHO 様

 こんにちは。

 “何でもあり”ということで、お得意の深遠な“お題”に踏み込まれましたね。思想薄弱な当方が苦手とする分野ですから、できるだけ《読み手》にまわるようにします。

>> 信仰にまつわるお話 <<
己の信仰、即ち人生を納得せしめる理由と向き合うことなく、主義思想を語ることはできない。
人は、何事かを信ずることによってしか、何も述べることができず、また、何も行うことができぬ生き物である。
あるいは、己が何を望むのかを見つめた先に、何を信ずるべきかが、見えてくるのかも知れない。

 単純思考のわたくしは、概して物事を深く考えません。ガラにもなく考え込むと気が遠くなるからです。

 世の中は複雑怪奇にしてわからないことだらけ。我が信ずる道を行くしかない。

と。
 そもそも“信仰”とは、《特定対象を絶対と信じて疑わないこと》でしょう。かといって、既存宗教だけが信仰の対象ではない。特定対象がキリストやエホバ、アッラー、釈迦、天照大神等でなく、“鰯の頭”でもいい。如何なる宗教宗派にも属さないわたくしとて神仏を信じますし、無神論者だって信じる何かがあるはず。おっしゃるように、人は常に何かを信じなければ生きて行けない、ということですね。

 科学全盛の世とはいえ、すべてが解明されたわけではない。人智ではどうにもできない事象がまだまだ数多くある。自分ではどうしようもない事態になったとき、何かに頼りたい(信じたい)気持になる。これが信仰の出発点だと思っています。

 “自信”とは、自らを信じること。これぞまさしく究極の信仰と言えますまいか。“過信”という落とし穴を否定しませんけど・・・。

 

<不完全な思想>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 3月 1日(火)16時50分26秒
返信・引用 編集済
  クロ様

>たまには、SHOさんのほうから話題をふっていただければ、さらに有り難い

御言葉にあまえまして、信仰にまつわるお話なぞを一つ、ご笑覧ください。

<不完全な思想>

ゲーデルの不完全性定理によれば、数学を含む無矛盾のあらゆる公理系には、その内部に否定も肯定もできない証明不能の命題が含まれるという。
一見、数学とは無縁な主義思想の話ではあっても、それらを極めれば、必ず存在論にたどりつく。
存在論を語ろうとすれば宇宙論や量子論を用いざるを得ず、そこには数学が含まれる。
さすれば、主義思想をいかに極めてみせたところで、そこに証明不能の命題が横たわるのを避けられまい。

そもそも、信仰とは証明不能の命題である。
あらゆる信仰を排除して論考したつもりでも、それは無自覚に紛れ込む。

例えば、様々に理屈を並べて無神論を標榜する御仁は後を絶たないが、無神論もまた、神など居ないという信仰の一つである。
なぜなら、神の存在を証明できないのと同様、その不在を証明することもまた、できないからだ。
さすれば、無神論に立脚したいかなる主義思想も、不完全であることに変わりはない。

神にまつわる言い伝えの数々を、ただ、あるがままに信ずるも良し、フィクションだとして「信ずる」も良し。
何を信ずるも、人間に与えられた選択の自由。
いかなる信仰であれ、それが実感としての死を目前にしても尚、瓦解することなく人道に資するなら、そこには確かな存在意義があるといえるだろう。
肝心なのは、あらゆる主義思想が、何らかの信仰と無縁ではいられぬことを自覚しておくことだ。
無自覚な信仰ほど、人を惑わせる厄介な代物はない。

己の信仰、即ち人生を納得せしめる理由と向き合うことなく、主義思想を語ることはできない。
人は、何事かを信ずることによってしか、何も述べることができず、また、何も行うことができぬ生き物である。
あるいは、己が何を望むのかを見つめた先に、何を信ずるべきかが、見えてくるのかも知れない。

 

Re: 「愛する」と「愛される」、どちらが容易?

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 3月 1日(火)08時11分10秒
返信・引用
  > No.172[元記事へ]

☆ SHO 様


 おはようございます。

 つまらない質問にも拘わりませず、さっそくのご回答をくださり、有り難うございます。しかも、“愛”について、わたくしが日頃思うことを代弁していただいたようなお答えでした。

 たまには、SHOさんのほうから話題をふっていただければ、さらに有り難いです。ここは「何でも商会(紹介?)」ですからね。どんなテーマでも結構です。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

Re: 「愛する」と「愛される」、どちらが容易?

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月28日(月)22時21分38秒
返信・引用 編集済
  > No.171[元記事へ]

クロ様

> “自らを愛する”とは《自己愛》になるのでしょうか。辞書によると《自己愛》は、《ナルシシズム》と同義でもあるようです。

ナルシズムというコトバに置き換えられる“自己愛”は、愛というコトバの誤用例に過ぎないと小生は思います。それは執着と愛とを取り違えているだけではないでしょうか。

>他人に対してはともかく、自分は自分に厳しいと思っています。これでは、“真実の愛”に一歩も近づけそうにありませんか?

親が子を育てる際、厳しく接するのは、そうすることが子のためだと思う愛情の故に他なりません。
子を甘やかすばかりが愛情ではないからです。
ゆえに、自分を愛すればこそ、自分に厳しくもするし、赦しもするということで良いのではないでしょうか。

 

Re: 「愛する」と「愛される」、どちらが容易?

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月28日(月)20時16分50秒
返信・引用
  > No.170[元記事へ]



☆ SHO 様


 こんばんは。

小生の場合、生来の面食いゆえ、不細工は愛することができません(笑)。
要するに、まだまだ人間ができていないというわけです(笑)。

 “可能性”を申し上げたまでで、神や仏でもないわたくしとて、全人類を等しく愛するなんてできません。特に、中韓ドラマに多いマッチョな女(?)は、死んでも愛せないでしょう。

 かなり前、“愛”と“恋”には明確な区分はないものの、どちらかといえば“愛”が上から目線なのに対し、“恋”は下から目線である、と書きました。“愛”は《(潜在意識の中で上位に立つ者が相手を)慈しみ憐れむ気持》。“恋”は《(同じく下位者が相手を)敬い慕い憧れる気持》。これが、わたしの思い込みによる偏見に満ちた恋愛観です。もちろん、“愛”や“恋”の一断面にすぎないことを承知の上です。

 もう一つ、磁極に喩えて、同極(似た者同士)は反発し合うが、異極(違った者同士)は却って引きつけ合う、との持論があります。だから、どうしても《似た者同士はうまくいかない》という結論になってしまいます。将来を夢見ながらの恋愛中はいいのですが、現実生活でともに暮らすようになった場合、役割分担として同じ事しかできないより、お互いの能力が違う方が、協同生活に都合がいいのは言うまでもないでしょう。《夫婦で一人前》の言葉もあるように、お互いの能力を補完し合って暮らすという意味合いもあるように思います。まあ“半人前”の者が、偉そうなことを抜かして、すみません。

 韓国ドラマにこれを証明(?)するような内容がありました。清く正しく美しい国語科女教師と短気で周囲に迷惑をかけてばかりの自己中心財閥御曹司の恋愛コメディ。彼女の出現で、次第に御曹司が従順になっていくさまを描いた作品。恋敵(真面目な美術科男教師)に対し、件の御曹司が天使と悪魔に喩えて『天使に天使は要らない。天使は悪魔にこそ必要。』と宣います。まさに「我が意を得たり」でした。

ところで、イエスのおっしゃる“隣人を愛せよ”には、前置きがあります。
“まず、汝自らを愛せよ。しかる後に、汝自身を愛するがごとく、隣人を愛せよ”です。
まことの愛は、まず、自らを愛するところからはじまるというわけです。

多感な十代、自己嫌悪に苛まれるのは、正義感によって自らを裁くためです。
けれども本当は、そこで駄目駄目な自分を赦してやれば楽にもなれるし、他人に対しても寛容になれるもの。
まずは自分に対して寛容であることが真実の愛の第一歩であると小生は思っています。

 クリスチャンではないものの、バッハの《マタイ受難曲》が好きで、“まず、汝自らを愛せよ。しかる後に、汝自身を愛するがごとく、隣人を愛せよ”の聖句は知っています。いわゆる《山上の垂訓》の部分ですね。

 “自らを愛する”とは《自己愛》になるのでしょうか。辞書によると《自己愛》は、《ナルシシズム》と同義でもあるようです。そうなると、《ナルシスト》が《自惚れ屋》でなく《自己愛者》では、いくらなんでも具合が悪いですよね。

 ところで、他人に対してはともかく、自分は自分に厳しいと思っています。これでは、“真実の愛”に一歩も近づけそうにありませんか?

 

Re: 「愛する」と「愛される」、どちらが容易?

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月28日(月)10時09分9秒
返信・引用
  > No.169[元記事へ]

クロ様

>愛されようと努力すればするほど、本来の自分からは遠ざかってしまう
>自分がその気にさえなれば、誰をも“愛する”ことができるのだから

小生の場合、生来の面食いゆえ、不細工は愛することができません(笑)。
要するに、まだまだ人間ができていないというわけです(笑)。

ところで、イエスのおっしゃる“隣人を愛せよ”には、前置きがあります。
“まず、汝自らを愛せよ。しかる後に、汝自身を愛するがごとく、隣人を愛せよ”です。
まことの愛は、まず、自らを愛するところからはじまるというわけです。

多感な十代、自己嫌悪に苛まれるのは、正義感によって自らを裁くためです。
けれども本当は、そこで駄目駄目な自分を赦してやれば楽にもなれるし、他人に対しても寛容になれるもの。
まずは自分に対して寛容であることが真実の愛の第一歩であると小生は思っています。


 

「愛する」と「愛される」、どちらが容易?

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月26日(土)15時00分38秒
返信・引用
  > No.168[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。

若者たちが恋人に対して用いる“愛している”が、本当に愛であるか否かは、そこに描かれるドラマ次第というわけです。

 韓国を含む外国ドラマを観ていると、“愛している”の大安売りで辟易します。五・六年前からTVを視なくなって久しいので、国内のドラマ事情はまったく知りませんが、日本も外国並みになっているのでしょうかね。現在広く用いられるデートの語も、昔は逢い引きとかランデブーとか或いは人知れぬよう単に約束と言ってませんでしたか。

 恋愛のあり方も時代とともに変わっていくのは自然の流れで、これも仕方のないことかもしれません。しかし、昔気質の者にとって、一度も口にしたことがない“愛している”を、うんざりするほど見せつけられたら、こちらのほうが木っ恥ずかしくなります。

 “愛する”こと自体は、相手に関係のない自分本位の感情であるのに、三島の解説にしたがうと、《忠》とか《尽くす》という相手本位の行為につながっているところが面白いですね。

 自分の場合、“愛する”ことよりも、どちらかと言えば“愛される”ことを意識してきたように思います。好きになった人は数多けれど、愛した人と問われれば、返答に窮します。でも、“愛する”より“愛される”ほうが遙かに難しい。なにせ、相手に100%依存した感情なので、自分にはどうすることも出来ない。愛されようと努力すればするほど、本来の自分からは遠ざかってしまう。そこへいくと、“愛する”ってことは実に簡単ですね。自分がその気にさえなれば、誰をも“愛する”ことができるのだから。
 
 

Re: 究極の愛

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月26日(土)12時45分17秒
返信・引用
  クロ様

>利己心が入りこんだ場合、もはや“愛”ではない

小生もそのようにとらえています。

愛だと思っていたものが執着であるのは、よくある話ではないでしょうか。
執着とは、利己心=エゴの産物。
愛と執着とは矛盾し、葛藤しながらも、双方にとって欠く事ができぬが故に、表裏一体。

恋心は執着であると同時に愛の種子を内包します。
しかし、執着は、それが執着であるがゆえに、いつかは失われる定め。
一切は時とともに移ろうもので、そこに覚えたはずの執着心もまた、いずれは失われてしまうものだからです。
実際、美女に覚えたはずの執着心は、それが老婆に変わり果ててしまえば霧散してしまいます。
しからば、愛の果実がどれだけ実ったかに、恋愛の結末は左右されるのではないでしょうか。

愛は、それが執着と決別したことを示すことによってしか、存在を誇示できぬように思います。
若者たちが恋人に対して用いる“愛している”が、本当に愛であるか否かは、そこに描かれるドラマ次第というわけです。

 

究極の愛

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月25日(金)23時40分8秒
返信・引用 編集済
   アガペーも、等しく恵みを与える自然への崇拝が根柢にあるようだ。ならば、天照大神(太陽神)を頂く我国と大差ない。三島由紀夫は『葉隠入門』で、恋愛を次のように記している。(要約)

 日本人本来の精神構造においては、エロースとアガペーは一直線でつながっている。もし愛が、純一無垢なものになるときは、それは主君に対する忠と何ら変わりはない。エロースとアガペーを峻別しない恋愛観念は、幕末には「恋闕の情」という名で呼ばれて、天皇崇拝の感情的基盤をなした。それは、最も官能的な誠実さから発したものが、自分の命を捨てても尽くすべき理想に一直線につながるという確信である。

 ボンクラ頭には難しすぎる解説だが、《主君に対する忠》と《自分の命を捨てても尽くすべき理想》に閃くものがある。《忠》や《尽くす》は相手本位の行為であるから、利己(自分の利益)より利他(相手の利益)を追求するのが“愛”ではないのか。そしてその原点は、《相手を思い遣ること》と観た。

 すると、利己心が入りこんだ場合、もはや“愛”ではないということか。逆に、自らが不利益を蒙るとしたらどうだろう。そんなことを考えさせてくれるドラマがある。

 またも韓国ドラマでごめんなさい。『黄金のリンゴ(全30話)』がそれです。

 先に概要を書きますと、制作年は2005年ながら、ドラマの舞台は1960年~70年代の軍事政権時代。経営者(富裕層・支配階級)側家族と雇われ人(貧困層・被支配階級)側家族との対立や愛憎を描いたヒューマンドラマ。富裕層家族が時代とともに没落してゆき、発端の舞台である果樹園は、ついに貧困層家族の手に渡るという革命劇的結末。また、不正選挙や反体制学生デモと武力鎮圧、ベトナム従軍による枯葉剤被害など、当時の政治社会情勢を映したドラマでもある。

 継母殺しの濡れ衣を着せられ、警察の拷問が原因で獄死した父親の冤罪を晴らすため、貧困層家族(長女キム・ギョンスク、長男ギョング、次男ギョンミン、継母の連れ子末妹クムシル)の四人が結束し、協力者を得ながら15年の歳月を経て、ついに真相解明成る。これがドラマのあらすじですが、採り上げるのは、全体の流れからは傍流かつ脇役にすぎないチョン・ホンヨンの“愛”について。

 登場人物が多く関係もかなり複雑なので、相関図(?)へのリンクを貼っておきます。
http://www.showtime.jp/special/korea/guide/golden_apple/

 韓国ドラマは、概ね台詞で語ってくれるので有り難いのですが、それを転載するだけでも膨大な量になるし、微妙な間合いは文字に出来ないため、切り抜いてつなげた映像を見てもらうことにします。

   ★ 他者評価を含めたホンヨンの“愛” ★ 約45分 《第22話・28話~最終30話》より

 最終カットは本論に無関係ですが、ドラマのラストシーンなので、蛇足を承知で敢えて加えました。
 ホンヨンさんの愛し方は、常人にはとても真似の出来ない、ドラマ(作り話)だから成し得た神業としか思えません。三島の書いた《自分の命を捨てても尽くすべき理想》とは、こういう“愛”を言うのでしょうか。

 ここでヒヨンとホンヨンの恋相手、ギョングの呼称を考察してみよう。韓国社会では、部外者と語る場合も、身内の目上を敬称付で呼ぶと聞く。(例;「ウチの兄」でなく「ウチのお兄さん」)

 ギョングが居ない席で、ヒヨンが「ギョング・シ(~さん)」または「ギョング・オッパー(兄さん)」と呼ぶのに対し、ホンヨンは誰と語るときでも呼び捨て。また、彼自身と二人きりの場合も、ヒヨンは「ギョング・シ」(邦訳では“あなた”)と敬称付だが、ホンヨンは「ギョング」と呼び捨て。同い年で幼なじみという間柄のホンヨンの呼び捨ては当然だろう。一方のヒヨンは、父親の会社とはいえ、室長である彼の下で勤務する立場がそう呼ばせているのだろうか。

 ところがである。恋愛感情を抜きにして、敬称付で呼ぶヒヨンは、彼への不信感を払拭しきれてない。つまり、内心では敬ってないことが明白。反対にホンヨンは、呼び捨てしても他の誰より彼を信頼している。小学生の頃に遡るとそれがよくわかる。

   ★ ホンヨンが小学生の頃 ★ 約20分 《第1話・3話・5話・7話・8話・22話》

 決して親の言いなりではなく、歪んだ大人社会の現実にも惑わされず、子供同士の誰とも分け隔てなく接している。ホンヨンさんがほかの登場人物と異なるのは、思い遣りや優しさは言うまでもなく、人を憎んだり恨んだりしない(出来ない)点だろう。彼女のこうした性格は、実は主人公群四兄弟姉妹が揃って尊敬する亡父の生前の姿と奇しくも符合するのであります。

 本題から逸れますが、全体のラストシーンに挿入された音楽は、“野花の少女”という邦題がつく。

   ♪ 野花の少女(唄;イアン) ♪ オリジナルサウンドトラック(OST)より

   ♪ 野花の少女(器楽バージョン) ♪ オリジナルサウンドトラック(OST)より

 四兄弟姉妹の子供時分、とりわけギョンスク姉さんと密接に結びついた歌(曲)なのですが・・・。

   ★ 「野花の少女(歌)」とハイティーン期のギョンスク ★ 約7分 《第5話・1話・4話》

 これでは、まるで「野生の少女」ではないか。恋い慕うジョンギュ相手に、一発見舞われたら二発張り返す場面は、鬼気迫るものがある。権力に反抗するにしても、ジョンギュの場合、所詮は権力側にあって父親庇護下の“ままごと遊び”に過ぎない。が、ギョンスクは誰に対しても臆することなく、逆境をバネにした超極太の筋金入り。弟たちへの躾を自ら実践してみせる。女を主人公にした韓国ドラマは、こういう心身ともに強靱なタイプが多い。でも、わたくしは謹んで願い下げ申し上げたい。なんだかボコボコにされそう。

 ホンヨンさんの登場場面では聴けない曲だが、可憐に生きる彼女にこそ似つかわしい。おまけして、オープニングとエンディングテーマ曲もお聴き下さい。

   ♪ メインタイトル(オープニング曲) ♪ オリジナルサウンドトラック(OST)より

   ♪ 夢見るカサビアンカ(唄;チョグ) ♪ オリジナルサウンドトラック(OST)より

 何が言いたいのかわからないような、まとまりのない文で失礼いたしました。

関連映像を削除しました。
2011/03/03
 
 

Re: 愛ある世界

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月23日(水)09時46分48秒
返信・引用 編集済
  > No.165[元記事へ]

クロ様

>  何だかずいぶんと難しい神様

意識の内側にある概念をコトバで表現しようと試みても、無用な混乱を招くだけなのかもしれませんね。
ゾウという生き物の姿をコトバで伝えるのが難しいのと同じではないでしょうか。
結局、感じるしかないと申せましょう。

>  対象相手に何らの見返りも期待しないのが“愛”

小生もそのように思っておりましたが、実社会における用途用法を鑑みると、必ずしもそれだけではなさそうです。
愛と執着とは表裏一体にて、それらを取り違えることで、コトバの混乱が生じているように思います。

目下、小生の懸案事項は、この唯一の実在との間に一体性を築くことにありますが、今生でそれを達成するのは難しそうです(笑)。
 

Re: 愛ある世界

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月23日(水)05時10分25秒
返信・引用
  > No.164[元記事へ]

☆ SHO 様

 おはようございます。

シャンカラの説く不二一元の哲学に見出される唯一なる実在にして至高の存在。
あってあるもの。
無形にして無限、無限にして偏在。
真理そのもの。
無償の愛としてドラマに表現される存在。

 何だかずいぶんと難しい神様(普通名詞)でいらっしゃいますね。
それでも、「無償の愛」の語に飛びついて、わかったようなわからないような・・・。

 「無償の愛」とわざわざ“無償”の枕詞がつくのなら、正反対の「有償の愛」も有り得るのでしょうか。以前から、対象相手に何らの見返りも期待しないのが“愛”、と自分は思い込んでいました。間違ってますかね。

 それでは、次回レスタイへの序章として、辞書にある“愛”を載せておきましょう。


あい 【 愛 】

 1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。
  また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。

 2 異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。恋。

 3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。

 4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。

 5 キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。
  また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。→アガペー

 6 仏教で、主として貪愛のこと。
  自我の欲望に根ざし解脱を妨げるもの。

 ありゃりゃ。仏教でいう“愛”は、よからぬ意味があるようですね。知りませんでした。
 

Re: 愛ある世界

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月22日(火)17時02分23秒
返信・引用
  クロ様

>  SHOさんのおっしゃる“神”が、どのようなものかは存じませんが、ギリシャ語のアガペーに類似するものとお考えでしょうか。

シャンカラの説く不二一元の哲学に見出される唯一なる実在にして至高の存在。
あってあるもの。
無形にして無限、無限にして偏在。
真理そのもの。
無償の愛としてドラマに表現される存在。

・・・そんなところです。
この宇宙は、もともと唯一なる実在(愛=神)が多様性をまとって表われた幻に過ぎないという世界観に基づく概念です。
これは小生が己の存在意義を納得せしめる過程でたどり着いた数ある思想のうちの一つに過ぎず、もとより折伏の野望はありません(笑)。

問われれば、可能な範囲でお応えするのみです。
それが、ここを目にする誰かにとっての、人生を納得せしめる何かのヒントになることを期待して。

 

Re: 愛ある世界

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月22日(火)09時05分1秒
返信・引用
  > No.162[元記事へ]

☆ SHO 様

 おはようございます。

“愛”というコトバを“神”というコトバに置き換えても、同じことがいえるように思います。
それらは味わうものであるということではないでしょうか。
料理に含まれる成分をいくら分析してみたところで、その味がわかろうはずはありません。

 SHOさんのおっしゃる“神”が、どのようなものかは存じませんが、ギリシャ語のアガペーに類似するものとお考えでしょうか。

 無宗教(特定宗派に属さない)であっても、自分は神仏を信じないわけじゃありませんし、「愛=神」説に否定的な立場でもありませんが、どちらかといえば、「愛=仏心(ほとけごゝろ)」といった形を想像しますね。

 それにしても、“愛”は抽象的概念であるだけに、《愛し方》にも人それぞれの形態があろうし、《愛してる》がどのような行為を指して言うのか、これまた十人十色でしょう。

 “人類愛”“兄弟愛”“祖国愛”といった語もあるし、男女間に限った問題でもない。

 次稿では、まことの愛としての“純愛”について、自分なりに少し考えてみたいと思います。

 

Re: 愛ある世界

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月21日(月)16時35分29秒
返信・引用
  クロ様

>“愛”という抽象的概念は、文字や言葉では表現しにくい性質のもので、《感じ取る》以外にない

おっしゃる通りですね。
ここで、“愛”というコトバを“神”というコトバに置き換えても、同じことがいえるように思います。
それらは味わうものであるということではないでしょうか。
料理に含まれる成分をいくら分析してみたところで、その味がわかろうはずはありません。

 

愛ある世界

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月21日(月)14時20分14秒
返信・引用 編集済
  > No.160[元記事へ]

☆ SHO 様

こんにちは。

人間万事塞翁が馬ですね。
目の前の幸不幸にとらわれず、泰然自若でいるのが、人生における理想的な態度であると小生は思っています。
もっとも、言うは易くですけれど(笑)。

 まったく同感です。

逃げたところで、課題は必ず形を変えて再び舞い戻ってくる。
それは、逃避の手段に自殺を用いたところで同じであるというのが、因果応報、輪廻転生の理によって説かれる自殺への戒めです。
来世で再び同種の困難に直面するのが定めというわけです。
無論、そうした課題は霊性の進化のためにあるのであって、罰則のためにあるわけでは決してない。
そうした困難を一つひとつ乗り越えることで、カルマの清算が行われるのだとか。
それは理不尽に思える人の世の困難や不平等を納得せしめる道理の一つにして、小生の深く信ずるところです。
とはいえ、己を不必要に追い込まぬ知恵として、時には“小さな”逃げをうつのも選択の一つではあるかもしれません(笑)。

 戦中映画『元禄忠臣蔵』のなかで、大石内藏助の放蕩三昧に呆れ果てた但馬(妻りくの実家)の使者が、離縁して実家に戻るよう説くシーンがあります。
 使者に対し、りくが語った妻としての心境。

 わたくしは、内藏助の生きてある限り、大石の家を出る心は毛頭ありませぬ。
世間百万の人がどのように誹り罵ろうとも、妻の身と致しては、夫を信じ、夫の道をともに歩んで行くよりほかに、我が世があろうとは存じませぬ。
 妻には妻の観た、世間のどなた様もご存じなき夫の姿というものがあります。
その妻の眼に映る夫は、それほど根から生えた放埒者とは思いませぬ。
(涙ぐんで) なじかは知らねど、身を細らせて苦しむ一事が・・・。
そのために心にもなき放埒に、身を崩している節がないでもあります。
打ち明けてはくれませずとも、夫の苦しみを我が苦しみとして、同じ屋根の下でともに苦しみとう思います。
どうか、もうその話はして下さるな。
但馬の父にも、そのように申し伝えて下されよ。
頼みます。

 おそらく戦意高揚のために作られたこの映画、原作者といい、演技陣といい、“左翼”の作品であるところか何とも皮肉。

 閑話休題。先の韓国ドラマも、《苦楽をともにする》ことの重要性を示唆してると観ましたが、それが上記の台詞に凝縮されているような気がします。然るに、どうしてこんな心境になれるのかと考えてみたとき、(りくが内藏助を)《愛してる》から、としか思い浮かびません。

 感情から発する“愛”という抽象的概念は、文字や言葉では表現しにくい性質のもので、《感じ取る》以外にない、というのが自分なりの考えです。つまり、双方向で感じ合うものがなければ、何ら成就し得ない“心の作用”ということでしょう。適当な語を充てるとすれば《以心伝心》ですね。

 そう言う意味で、韓国に限らず外国ドラマを観るとき、何かにつけて湯水の如く「愛してる」を連発するシーンには、本当に辟易します。原語を理解し得ない者が言うのもナニですが、翻訳が悪いせいかもしれませんけど・・・。

ありがとうございました。

 

Re: 太陽に向かって

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月20日(日)19時09分43秒
返信・引用
  クロ様

>裏返せば、幸福絶頂期の後に待っているのは、艱難辛苦の荒波以外の何ものでもない

人間万事塞翁が馬ですね。
目の前の幸不幸にとらわれず、泰然自若でいるのが、人生における理想的な態度であると小生は思っています。
もっとも、言うは易くですけれど(笑)。

>艱難辛苦から逃げずに、何事も真正面から取り組む

逃げたところで、課題は必ず形を変えて再び舞い戻ってくる。
それは、逃避の手段に自殺を用いたところで同じであるというのが、因果応報、輪廻転生の理によって説かれる自殺への戒めです。
来世で再び同種の困難に直面するのが定めというわけです。
無論、そうした課題は霊性の進化のためにあるのであって、罰則のためにあるわけでは決してない。
そうした困難を一つひとつ乗り越えることで、カルマの清算が行われるのだとか。
それは理不尽に思える人の世の困難や不平等を納得せしめる道理の一つにして、小生の深く信ずるところです。

とはいえ、己を不必要に追い込まぬ知恵として、時には“小さな”逃げをうつのも選択の一つではあるかもしれません(笑)。
 

Re: 太陽に向かって

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月20日(日)14時05分54秒
返信・引用
  「太陽に向かって」制作発表会
http://www.youtube.com/watch?v=Hh4h5iT55pk

「太陽に向かって」~メイキング
http://www.youtube.com/watch?v=ALULkIOPGjE
 

Re: 太陽に向かって

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月19日(土)23時40分4秒
返信・引用
   二人がゴール(結婚)へ向けて順調だった頃の会話。

ヘリン先生「ちゃんと見せること。久し振りなんだから、ちゃんと顔を見せて。」
ソンミン大尉「ヘリンさん。」
先生(明るい表情で)「はい。」
大尉「いいえ、いいです。」
先生「わかった!謝りたいのに言えないんでしょう?」
大尉「何でそれを?」
先生「ソンミンさんのこと、わかってきたもの。
  食欲もないでしょう?顔に書いてある。
  悩みがあるって眼に書いてある。」
大尉「いいえ、ありませんよ。」
先生「私、あなたと一緒に歩んで行くんです。
  一緒に歩けば、お花畑も泥道もあるものです。
  一人で泥道を行くのではなく、こうして手をつなぎ、泥道を飛び越えましょう。

大尉「俺を信じる?」
先生「もちろん。」
大尉「じゃあ時間を下さい。整理が出来たら話しますから。すべてを。」
先生(頷いて)「待ってます。」

 このとき、女医さんの仰せに従い、正直に洗いざらいを打ち明けていれば、夫婦喧嘩(まだ夫婦ではないが)程度の揉め事になったとしても、最悪の事態は避けられたろう。ドラマだから、脚本に沿った一本の道筋しかない。結末(最終話)に行き着くまでの第1話からの流れは、紆余曲折を経ながらも、一つ一つの場面に意味が籠められているといえよう。そう考えると、大詰めの破局は、傷つけまいとする大尉の《内に秘めた悩み(隠し事)》に端を発していることがわかる。だとすれば、《独りで悩まない=苦楽をともにする》。これが脚本家の言いたかったことではなかろうか。

 傷つけまいとする大尉の気持もわからないではないが、過剰な思い遣りは、彼女を“愛玩動物”化しかねない。当人はそんな扱いを望んでいない。苦楽をともにしてこそ、喜びも悲しみも分かち合えるというもの。女医さんは、大尉と一緒なら自ら泥を被る(傷つく)決心でいたのだから。

 とはいえ、《内に秘めたもの》が皆無というのも現実にはあり得ない。結局、軽重次第でどうにでも転ぶということだろう。韓国ドラマは、善意にしろ悪意にしろ謀(はかりごと)が多く、このドラマも敵と味方がはっきりした恋愛ゲームのような展開ですが、大尉派の作戦会議(当人は除け者)で、「恋愛は作戦通りに行かないなあ。」と度々嘆くシーンがある。そうなんですよ。如何に周到な準備があろうと、人生だってなかなか思い通りにはならない。人生にも波があって、艱難辛苦の後には満ち足りた幸福がやってくる。裏返せば、幸福絶頂期の後に待っているのは、艱難辛苦の荒波以外の何ものでもない。

 劇中、《強い波が強い漁夫を作る》という韓国海軍の格言が幾たびか出てくる。また、苦労人の大尉を指して《人生の荒波に揉まれた成熟男》と評する場面もある。戦中の東宝映画『ハワイマレー沖海戦』では、海軍教官役の藤田進が、《艱難、汝を玉にす。》と訓示を垂れるシーンがあり、万人に共通の教訓なのかもしれませんね。

  艱難辛苦から逃げずに、何事も真正面から取り組む。

 これが、ドラマから得た己に対する訓戒でありました。

 どうでもいいけど、韓国海軍式敬礼は「ピルスン(必勝)」と発しながらするんですね、知りませんでした。別番組に韓国警察を扱ったものがありますが、そちらは「チュン・ソン(忠・誠)」と言って敬礼してました。

ありがとうございました。

(完)

 

太陽に向かって

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月19日(土)16時20分18秒
返信・引用
   大詰めに来ての破局。

 ソンミン大尉「バカみたいに、また来ちゃいました。
   バカみたいだけど・・・。」
 ヘリン先生「ごめんなさい。傷つけてばかりで・・・。
   これからは、私みたいな女を好きにならないで。」
 大尉「ヘリンさん。」
 先生「ソンミンさんに愛されるにはふさわしくなかった。
   私みたいな女は忘れて、いい人に出会って。
   明日になれば、他の男の妻になるバカな女です。
   先輩(恋敵の医者)を愛してないけど、努力するつもりです。
   じゃあ。」
 大尉「俺を。愛してましたか?」
 先生(滲む涙をこらえて、無言で頷く。)
 大尉(先生の後ろ姿に)「お幸せに。俺の願いはただ一つ。
   ヘリンさんが傷つかないこと。幸せになること。それだけです。」
 先生(後ろ向きのまま頷き、眼を覆いながら足早に去る。
   独り涙する大尉の姿を物陰から垣間見て泣き崩れる。)

 “ラブコメディ”というより、もはや“メロドラマ”ですね。果たして大尉の最後の言葉は、世のご婦人方には“これぞ純愛”と映り、涙が止まらない場面でしょう。しかし、わたくしは大いに不満であります。

 大尉は、日頃の“男らしさ”を発揮すべきだった。
 挙式を翌日に控えた女が、新郎の恋敵と密会するなんて、全く信じがたい。加えて、彼女の口から発せられた“絶縁宣言”が偽りだからこそ、隠したつもりの本心が涙を誘い出す。この涙は、「苦境を救って。」と助けを求めるSOS信号に他ならない。女と男では涙の意味が違う。男が振られてメソメソしてる場合じゃない。しかも、当の女医さんに泣き顔を見られちゃったりして最悪。緊急事態に臨む男の責務は、有無を言わせぬ決断と行動力。妹スジンさんを見習え、と言ってやりたい。猪突猛進型の大尉にして、傷つけまいとする過剰な思い遣りが徒となり、肝心なときに“男”になれなかった。まことに情けない。
 まあ、据膳喰わぬ恥かき男が、偉そうなことを言えませんがね。

 なお、劇中、“バカ”という語が何度も出てきます。おおかた“世渡りが下手で浮世の機微を知らない不器用な人間”を指して用いられます。しかし、“バカ”はバカ正直でクソ真面目だから、平気な顔で嘘が吐けない。“悪賢い”“悪知恵”の語はあるが、“バカ賢い”“バカ知恵”とは言わない。つまり、如何なる“悪巧み”も、賢くて知恵が回らなければ出来ないのである。

 SHOさんには悪いけど、当該ドラマに於いて、悪賢く悪知恵の働く人物とは誰あろう、カン・ソンミン海軍大尉の恋敵、病院長の息子にして心臓外科の権威、イ・スンハ先生その人なのである。

《 続 く 》
 

Re: <ある寓話>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月17日(木)23時00分0秒
返信・引用
  ☆ SHO 様


こんばんは。

>> 実際、死を受け容れておられる方ほど、生き生きと日々を過ごしていらっしゃる。 <<

 実はこのドラマ、己の死を賭して他者(国民)を護る職業軍人と、患者を死から救う医者(女医さん)という、ともに死と向き合わなければならない職業同士の物語なんですね。

 そんで以て女医には、死を拒絶するに十分な過去があり、軍人は職業柄、常に己の死を意識している。

 ところが、女医は婚約者を交通事故で亡くしたものの、その彼氏が心の中に生き続けていて、今なお死んだ彼氏と一緒にいるつもりになっている。軍人のほうも、亡父(海軍下士官)の姿が心の中に生きている。そんな共通点があるんですね。

 デート中の軍人の昔話(多くは苦労話)がヒントになり、死んだ彼氏に対する女医の思いは、次第に軍人へ傾いていきます。軍人のほうも、女医の何気ない言動から、辛かった日々が愉しいひとときに変わっていく。

 例として、雪の日。
 死んだ彼氏との愉しい思い出がある雪の日が好きという女医に対し、両親が死んだのがともに雪の日とあって軍人は大嫌い。それを聞いた女医が、彼氏にしたことを思い出して、悪戯っぽく雪の塊を軍人に投げつけるんですよ。はじめは戸惑っていた軍人も思いっきり仕返しをする。こうしてじゃれあっているうちに、軍人の両親を亡くして辛かった雪の日の印象は薄れ、彼女とふざけあった愉しい雪の日が強い記憶に残る。

 相手の辛い思い出を一瞬の愉しい遊戯で幸せなひとときに変えてしまう。これって女医さんの軍人さんに対する《愛》ですよね。つまり、ふざけあうにも、何か通じるものがなければ出来ない。憎み合っていたら、忽ち喧嘩になっていたところ。

 ここで重要なのは、女医さんの行為だからこそ、軍人さんがその《愛》を上手くキャッチできたということでしょう。仮に死んだ彼氏が生きてたとして、直接軍人さんに投げつけてもこうはならなかった。また、如何に愛する実妹といえどもこんな状況は作れない。即ち、軍人さんを癒せるのは愛しの女医さんでなければならないんですね。

 自分は、《愛》とは一方的に与えるもので、《恋》には常に独占欲が伴う、と考えています。「愛欲」という語もあり、これが正しいと言い切れませんし、いずれも感情から発するものなので、人それぞれの感じ方によって様々な解釈があって結構でしょう。

 では劇中、“人間のクズ”“汚い奴”“卑怯者”と評判のワルモノ恋敵お医者さんの女医さんに対する思いを考えてみるに、口では盛んに「愛してる」といえども、《愛》の欠片すらなかったということでしょう。確かに《恋》してたかもしれないが、あったのは彼女を自分のものにしたいという欲望だけ。《恋》してるから彼女に暴力をふるう(ただし“レイプ未遂犯”。このためかR指定になっている。)わけでなく大切に扱ってはいる。

 しかし、自分のモノにすることが目的で、彼女の思いなど全く考慮せず、一切自分の考えで進めるため、実は当の本人に嫌われていることさえ知らない。彼女が「嫌い」とはっきり言えないのは、持って生まれた思い遣りと、世話になっている病院長の息子であること、それに死んだ婚約者の学友という粗末に扱えない存在だからである。このワルモノ先生は、世間がそうであるように、彼女もまた地位や金銀財宝を与えれば満足すると思い込んでいる哀れな男である。

 最初の内は地位や財力にモノを言わせ、力によって味方やスパイに仕立てていた者が次第に離反し敵方(?)に寝返る。終いには頼みとする父親(病院長)にまで怒鳴りつけられる始末。

☆ 彼女を得るために犯した悪事の数々 ☆

1.学友である彼女の婚約者を彼女と会わせまいとして、婚約者の風邪薬に細工した。(韓国医師法違反らしい)
2.それが仇になり、婚約者は居眠り運転で交通事故死。
3.その交通事故に遭遇して婚約者を助けようとした恋敵軍人を殺人犯に仕立て上げる。
4.彼女の父親の臨終に際し、恋敵軍人を婿にするという遺言を、自分だけしか聞かなかったことをいいことに、勝手に自分が婿に選ばれたとウソを吐く。

1.2.は、ワルモノ先生を好きだった女看護士に証拠を暴かれ、自首せよとの忠告も無視したため、廃業の憂き目に。3.は恋敵軍人部下の中尉に真実を暴かれる。4.は彼女の父親部下が遺言テープを発見し、それを恋敵軍人に渡してジ・エンド。

そんなところです。

>> 愛の考察も含め、楽しみにしつつ、気長にお待ち申し上げております。 <<

 近日中には投稿できる模様。期待せずにお待ち下さいませ。

 

Re: <ある寓話>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月17日(木)12時02分48秒
返信・引用
  > No.153[元記事へ]

クロ様

>  他人(世の中)のせいにするか、自分のせいか、これは案外、重要な分岐点

そうですね。
因果応報の実感がある小生の場合、結局は己に原因があるとして人生に納得しています。
もっとも、憤ることがないわけではありませんが(笑)、そう考えると怒りがさめるのも随分と早いようです。
要するに、引きずれない性格。
唯一引きずっているのは、失恋の思い出くらいでありましょうか(笑)。

> “明日死ぬ”と思って日々の暮しを続けているのですから、今日を生きる姿が真剣そのもの

そうなんですよ。
実際、死を受け容れておられる方ほど、生き生きと日々を過ごしていらっしゃる。
それは<道>スレに書きました通りです。
自らがその境地に達しているとはお世辞にもいえませんが、しかし、それを真似して生きて行きたいとは思いますね。

>  続きは鋭意執筆中ですが、原稿締切日が定められていないため、ずぼらな性格では何時になるやらわかりません。

愛の考察も含め、楽しみにしつつ、気長にお待ち申し上げております。

 

Re: <ある寓話>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月17日(木)11時00分33秒
返信・引用
  > No.152[元記事へ]

☆ SHO 様


おはようございます。

>> 医者がワルモノってのが少々いただけませんねえ(笑)。 <<

 ゐっひっひっひ。でも、文句があるなら韓国SBS-TVへ怒鳴り込みに行って下さいね。わたしのせいじゃありませんよ。

 いつぞや、韓国ドラマは何かにつけて人のせいにする、と書きましたが、このドラマも同様です。しかし、主人公カップル(海軍大尉と女医さん)だけが正反対なんですね。何でも自分のせいで家族や友人に迷惑をかけていると思い込んで独り勝手に悩むんです。

 他人(世の中)のせいにするか、自分のせいか、これは案外、重要な分岐点かもしれません。

 結論を言えば、このドラマの主題は、「武士道とは死ぬことと見つけたり。」の『葉隠』精神に通じているように思います。なぜなら、主人公の海軍大尉には《死の職業》という自覚があり、“明日死ぬ”と思って日々の暮しを続けているのですから、今日を生きる姿が真剣そのものです。

 続きは鋭意執筆中ですが、原稿締切日が定められていないため、ずぼらな性格では何時になるやらわかりません。

ごめんなさい。

 

Re: <ある寓話>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月17日(木)08時28分54秒
返信・引用
  > No.151[元記事へ]

クロ様

韓国ドラマですか。
たいそうな人気だそうですね。
格調高きいかなる論考よりも、時として一遍の寓話の方が人を導くことはあるものです。

お話の展開を楽しみにしておりますが、医者がワルモノってのが少々いただけませんねえ(笑)。

 

Re: <ある寓話>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月16日(水)16時43分4秒
返信・引用 編集済
  > No.150[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。

 よいお話をありがとうございます。

 自分にとっては、初めて接する<ある寓話>でした。
しかし、ドラマや映画もまた一つの寓話と捉えれば、そこに多くの処世訓的類似性を見出すことが出来るのではないでしょうか。

 ちょうど昨日、「太陽に向かって(2003年)全20話」という韓国TVドラマを見終えたところです。

太陽に向かって 第一話

 無料の第一話だけ観たのでは単なるラブコメディにしか映じないものの、物語が進むにつれて特に終盤はかなり重苦しいシリアスな内容へと変貌し、すべては最終話に凝縮されています。とりわけ海軍大尉が主人公であり、韓国海軍の軍隊生活が出てきてそちらも興味深いです。

 といっても、あくまでドラマで描かれた軍隊に過ぎず、実態をどれほど反映しているか知りませんが、外観は完全に米軍がモデルですね。ただ、精神面における軍人としてのあり方等は我が日本軍と共通するものがあるように思いました。そして、二度ほど海軍の結婚式が出てくる。一般会場におけるものと、もう一つが艦上結婚式。艦上のほうは初めて観ましたが、ドラマ上の演出が施されていることを割り引いても、実にカッコイイ。

 こんなこと書くと、どこぞの海軍信奉者がひょっこり現れるやもしれませんが、もちろん、それを密かに期待してのことであります。

 本筋に話を戻しましょう。

 とかく韓国ドラマは、蜉蝣、おっとっとっと、富裕(支配)層と貧困(被支配)層の階級闘争的構図として描かれることが多く、それも決まって被支配階級を是とした物語になっています。しかも、古典的な創りであるため、想像力を必要とする難しいものではなく、大仰な仕種やセリフによってストレートに表現されていくので“野暮ったさ”を感じる反面、異文化の住人(即ち自分)にはこのほうが却ってわかりやすい。

 このドラマも、<ある寓話>の前段と後段の両話がそっくり当てはまる気がします。

 人を動かす(従わせる・味方につける)には、力によって屈服させるのではなく、悦服(悦んで服従する)させることのほうが重要と思っているので、どうしてもそれに結びつけてしまいがちな面があることを予めお断りしておきます。

 <ある寓話>の前段に通じる部分で言えば、彼の海軍大尉は彼女(女医)の父親が牧場で働いているのを知って、牛馬の糞処理などを手伝うようになる。

 親父 「ワシはお前に頼んだ覚えはないぞ。帰れ!」
 大尉 「いやあ、手伝うわけじゃなく、好きで勝手にやってるんですから、気にしないでください。」

 もちろん、彼女の心を射止めたい下心はあろうが、そんな素振りは臆面も見せず、苦役ではなく愉しみながらできるのも、中三の時に両親に先立たれ、妹と二人で世の荒波に揉まれてきた苦労人であればこそ出来ること。そして、亡父を彼女の父親にダブらせ、親が生き返った気分を味わえる、という何と愉しい思考ではありませんか。

 対する恋敵の医者は、個人経営の病院長を父に持ち、その地位と財力を利用して、彼女をモノにしようとの下心ありあり。真骨頂は、件の妹が先走って、兄の恋敵のところへ怒鳴り込みに行く場面。

 医者「何ですか、失礼な。」(突然、自室に入ってきた大尉の妹を見て)
 妹 「私のこと、知ってますよね?」
 医者「ウチの病院の実習生だ。」
 妹 「今日はソンミン(大尉)の妹として來ました。」
 医者「それで?」
 妹 「ひとつお聞きします。兄に何の恨みがあるんですか。やってもいないことをやったといって陥れて。」
 医者「恨みはないけど、俺が何かしたとでも?」
 妹 「人を陥れて女を奪う卑怯さは元々の性格ですか?」
 医者「何だと?生意気な。」
 妹 「そんなに自分に自信がないんですか?そうやって手に入れた女と上手く行くと思います?」
 医者「お前の兄さんこそ自信がないんだろうな。妹を寄こすなんて何と卑怯な。」
 妹 「兄さんを悪く言う資格、あんたにはないわ。家族のために新聞配達した事ある?学校の補習時間に焼き芋売った事ある?真冬に震えながら“餅を買って下さい”と叫んだ事あるの?手はあかぎれし、足は凍傷になり、歩けなくなった事はあるの?あんたは何でも与えられて自分だけ幸せなら満足でしょ。人のために自分の物を譲った事ある?温室の中の花のくせに、兄を悪く言って傷つけるなんて。」と胸ぐらを掴む。
 医者「何だ?放せ!」
 妹 「今度兄さんに何かしたらぶっ殺すからね。脅しじゃないよ、本気だよ。私の目を見な。あんたなんて殺す事だって出来る。」

 もちろん、兄の指示で行ったわけではない。むしろ、兄が知ったら逆に「余計なことをするな」と叱られるケース。
もう一つは、件の女医さんに対して、これも義憤に駆られた独断行動。

 妹 「辛いとき(父親が亡くなった)にすみません。」
 女医「ケンチャナ(いいのよ)。」
 妹 「オニイ(お姉さん;親しい女性同士で年上をこう呼ぶらしい)。こんな事言うのは何ですが、お姉さんも大変だろうけど、兄さんにもう一度会ってもらえませんか?本当は兄さんを苦しめるお姉さんを憎んでいました。だから無理矢理お見合いもさせました。でもダメでした。いいえ、それどころじゃなくて、結婚したい女(当の女医さん)がいたんだと言い放って帰ったんです。私は悲しいです。イ先生(恋敵)と結婚するって噂が立ってました。でも兄さんはお見合いもしてくれない。」
 女医「ごめんなさい。」(終始うつむいたまま)
 妹 「本当にイ先生と結婚するんですか?同じ女ですが理解しがたいですね。(兄を)愛してなかったんですか?なぜ指輪をもらったんですか?女心は変わりやすいとはいえ、どうしてこんなにすぐ。他の人と結婚だなんて。例えイ先生と結婚する気が10%あっても、(兄への未練が)1%でもあったらお姉さんのこと、認めません。そういう曖昧さで兄さんを惑わすんだから。ですからハッキリ切って下さい。」(キッと席を立ち、出て行く。)
 女医 (茫然として言葉も出ず)

 とにかくドラマ上の韓国女性は心身ともに強いです。

 何時になるかわかりませんが、続きがあるのでいずれ書かせていただきます。

ありがとうございました。
 

<ある寓話>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月16日(水)08時33分56秒
返信・引用
  とある無邪気な男が、高僧に尋ねました。
「神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。よろしければ、私にも神様をみせてはいただけないでしょうか」
高僧は無言で男を見つめていましたが、やがてこう答えました。
「承知いたしました。では今度、神様をご覧に入れましょう」

しばらくして、高僧は病気で寝たきりの老人宅を、この男とともに訪ねました。
高僧はアカにまみれた老人の体を丁寧に拭き、汚れた衣類を洗い、こまごまと身の回りの世話をしてから、男にいいました。
「お目にかけることができましたでしょうか」

「・・・・・・・?」

また、あるところに、たいそう信心深い男がおりました。
ある日、大雨のため、男の家は洪水に見舞われてしまいました。
このままでは男の家が屋根まで水に浸かってしまうのも時間の問題です。
逃げ出すそぶりをみせようとない男に、心配した隣人がこう言いました。
「早くそこを出て高台に逃げた方がいいですよ」

「いいえ、私には神様がついていますから、何の心配もいりません。どうぞお構いなく」
男はそういって隣人の忠告を聞き流しました。

そうこうするうち、どんどん水はあふれ、男は屋根に上らざるを得なくなってしまいました。
屋根に逃れた男に、救助艇が近づき、隊員が声をかけました。
「早く、そこから避難して、このボートに乗ってください」
男はこたえていいました。
「私には神様がついていますから、何の心配もいりません。どうぞお構いなく」

とうとう、男は家もろとも、水に流されてしまいました。
流される男を救うため、救助隊のヘリコプターが上空で旋回し、隊員の手によって浮き袋が投下されましたが、男はそれを手にとることもなく、息も絶え絶えに言いました。
「心配はいりません。きっと、神様が今にも私を助けてくださいます」

結局、男は溺れて死んでしまいました。

あの世にたどり着き、神様の御前に通されると、男は神様に向かってこうまくしたてました。
「ひどいじゃあ、ありませんか。私は誰よりもあなた様をお慕い申し上げておりましたのに、とうとう、助けてはくださらなかった」
神様はいぶかしげに男を見つめると、こうおっしゃいました。
「私は、そなたを救うために三人の使者を送ったはずだが、それらをことごとく無駄にしたのは、そなたの方ではないか」


クロ様。
上記は、瞑想の師より頂戴いたした寓話で、小生の信仰の精髄です。
小生のいうところの神とは何ぞや、愛とは何ぞやをご理解いただく手がかりとして、御笑覧ください。
 

<小生がいうところの愛>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月 8日(火)15時01分25秒
返信・引用
  > No.146[元記事へ]

クロ様。

愛というコトバは、神というコトバと一緒で、それを用いる側と、受け取る側の理解度や解釈によってすれ違いが生じやすいですね。

愛の何たるかを追究すればするほど、神の何たるかを追究するのと同じように、極めて深遠な領域を考察してのける必要がでてまいります。

実際、愛に関する考察の不足する人が愛の名を聞くと、すぐに鳩山友愛と一緒くたになってしまうようで困ってしまいます。

愛には寛容があり、自己犠牲や利他的性質が含まれるというのは、すぐに思いつくところですが、小生の場合、愛は神とも同義であると思っています。

もっとも、そうなると神とは何ぞやというお話になってしまうので、話はさらにややこしくなってしまうかも知れません。
 

Re: 『愛』と『憎しみ』

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月 8日(火)14時03分24秒
返信・引用
  > No.147[元記事へ]

SHOさんへの返信です。


> 大変、申し訳ありませんでした。
> 小生、外来診察の合間に編集作業をしておりまして、外来のお呼びがかかっては途中やめになってしまい、それでもいちいち送信していたため、かくなる結果を招いてしまったという次第です。
> お恥ずかしい限りです。
> 今日は真冬の火曜日で、患者さんが少ないせいもあります。
>
> 文章をねちこく推敲する癖が抜けないのですが、今後は気をつけます。
> ご容赦を。

 とんでもございません。

 こちらこそ余計なことを書いて、お気を煩わせてしまい申し訳ありません。

 編集毎にメールが届くだけのことで、受信箱が満杯になるわけでもなし、どうぞ今までのやり方をお続けいただいて一向に差し支えございません。

 よろしくお願い申し上げます。
 

Re: 『愛』と『憎しみ』

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月 8日(火)13時42分45秒
返信・引用
  > No.146[元記事へ]

クロ様

>  己の書き込みを含めて投稿があればメールで知らせてくれる仕組になっているのですが、今朝から数十通ものメールが届き、さては大挙して“荒らし”さんでもお出でになったのかと思いましたよ。編集毎に一投稿と見なされるようです。

大変、申し訳ありませんでした。
小生、外来診察の合間に編集作業をしておりまして、外来のお呼びがかかっては途中やめになってしまい、それでもいちいち送信していたため、かくなる結果を招いてしまったという次第です。
お恥ずかしい限りです。
今日は真冬の火曜日で、患者さんが少ないせいもあります。

文章をねちこく推敲する癖が抜けないのですが、今後は気をつけます。
ご容赦を。
 

『愛』と『憎しみ』

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月 8日(火)13時35分50秒
返信・引用
  > No.145[元記事へ]

☆ SHO 様

 いやあ、たまがってしまいました。

 己の書き込みを含めて投稿があればメールで知らせてくれる仕組になっているのですが、今朝から数十通ものメールが届き、さては大挙して“荒らし”さんでもお出でになったのかと思いましたよ。編集毎に一投稿と見なされるようです。

>>剣によって立てば、剣によって滅びるのが定めなのだと小生は思います。<<

 「憎しみ」は「愛」によってしか解決できないと考えている立場ですから、まったくの同感です。

 有名な「目には目を、歯には歯を」という旧約聖書の聖句も、イエス・キリストによって「右の頬を打たれたら、左の頬も差し向けよ」と、新約では正反対の教えが出てきますからね。

 ところで、韓国ドラマに於ける「愛」は、キリスト教的要素がたっぷり含まれていて、日本で一般に用いられる「愛」の概念とはまるで違うようです。

 

Re: 外国人が眺める日本

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月 8日(火)12時09分17秒
返信・引用 編集済
  > No.144[元記事へ]

クロ様

>韓国や中国を「反日国家」と決めつけ、その排撃に喧しい人たちを観察するに、思考や行動が彼国と生き写しであるように見えてきませんか?

おっしゃる通りです。
我々が、誰か、あるいは何者かを攻撃するとき、それは相手に対し、虚像を見出しているのだと思います。
その姿は往々にして、己自身の醜い姿です。
鏡に映った己自身を攻撃しているに過ぎず、その批判の矛先は、必ずや己自身に向かうこととなるでしょう。
ゆえに、剣によって立てば、剣によって滅びるのが定めなのだと小生は思います。

 

Re: 外国人が眺める日本

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月 8日(火)11時45分1秒
返信・引用
  > No.143[元記事へ]

☆ SHO 様


こんにちは。

>> こうした言動を陰口といいまして、それは卑怯者の作法にあたります。 <<

 『復讐心』、『他人のせいにする』、『卑怯者』・・・。

 何だか若い頃の自分が責められているみたいで、耳の痛いお話です。己のこうした側面が今なお完全に消えたわけではありませんが、少なくとも“良心の呵責”にさいなまれるようにはなりました。

 書き落としていましたが、韓国ドラマのもう一つの特徴として、善意で為す場合も含め、やたらと謀(はかりごと)が目に付くことです。隠し事(特に近親者間では)を悪と捉え、誠実を旨とした信頼関係で成り立つ我国とは大いに異なります。或いはドラマに限ったことかもしれませんが、誰をも信用できない権謀術数が渦巻く世の中が背景になければ、如何に作り話とはいえ、ドラマ自体が受け容れられないようにも思います。

 「愛」をテーマとしたドラマが多い点では人類共通とも言える反面、その実、韓国はやっぱり中国文化圏なのでしょうね。

 常々思うのですが、韓国や中国を「反日国家」と決めつけ、その排撃に喧しい人たちを観察するに、思考や行動が彼国と生き写しであるように見えてきませんか?

 「愛」の表現について、いずれ比較を試みたいと思います。

ありがとうございました。

 

Re: 外国人が眺める日本

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月 8日(火)09時00分26秒
返信・引用 編集済
  > No.142[元記事へ]

クロ様

>過去の恨みを伴った復讐劇が比較的多い。
>もう一つ、何でも他人のせいにすること。ドラマの主人公でさえ、本心ではないにせよ、他人のせいにする場面が多々あるのですから、何をかいわんやです。

何でも他人のせいだと考えるから、復讐せざるを得なくなるのでしょうね。
秋葉原事件の犯人と一緒です。
根底にあるのは、平等あるいは公平でなければならぬというサヨク的正義。
ゆえに、復讐心は劣情に他ならないというのが、小生の主張です。

とはいえ、貴兄もご存知の別の掲示板では、そう指摘したとたん、ある御仁から歴史を馬鹿にするなと“格調高い感想文”によって咬みつかれてしまいました。
人類史は復讐劇であり、復讐心を馬鹿にするとは歴史を馬鹿にすることだというわけです。

何とも乱暴な主張です。

大方、その御仁は、小生の論より、己自身の内面にある復讐心を馬鹿にされたと感じたのでしょう。
そこで謙虚に自らを省みるのでなく、まさしく復讐に転じ、小生に咬みついてきたというわけです。
自らの復讐心を肯定するために歴史を利用し、それを口実としたに過ぎません。
歴史をなめているのは一体どちらなのか。

たいそう教養のある御仁のようでしたが、蓋を開けてみればその程度。
それを周囲の観客は格調高いご高説などと誉めそやす次第ですから、呆れて物も言えなくなってしまいました。
もとより感想文には反論する術もありませんし。

もっとも、そのお方が貴兄のお友達でしたらば誠に申し訳ないことですし、これもまた、小生自身の迷妄を相手の裡に虚像として見出しているだけなのかもしれません。
とはいえ、どこかに小生も“感想”を吐き捨てたかったようで、ついつい、以前のお言葉に甘えてしまいました。
いずれにせよ、こうした言動を陰口といいまして、それが卑怯者の作法にあたるのは間違いありません。

小生も、まだまだ修行が足りません(笑)。
反省。反省。


(*クロ様、御言葉に甘えて、再び不適切部分を編集させていただきました)
 

Re: 外国人が眺める日本

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 2月 7日(月)14時36分54秒
返信・引用
  > No.141[元記事へ]

☆ SHO 様


こんにちは。

 ご投稿ありがとうございます。

 恥ずかしながら、自分は思いつくまま書くクセがあるので、考えたことと実際に書いた内容がまるで違っていたりすることが偶にあります。

 前稿の冒頭文は続く文面に関係なく、所謂反日国家と見なされている韓国が頭にあったのです。

 既稿で書きましたように、実はいま、韓国映画・TVドラマに凝っていて、関連ページをHPに掲載したいと準備中です。

 韓国ドラマと言えば、CS衛星放送を受信し始めた1980年代末頃、在日向けなのか韓国語放送チャンネルがあって、一時これを視聴していました。日本語字幕はないものの、韓国語がわからなくても、役者の表情動作でどんな場面であるかは或る程度想像がつきます。歴史物がドラマ群の中心で、それはそれは酷いモノでした。登場する日本人はすべて極悪人として描かれていました。劇中出てくる日本語は「バカヤロウ」の一点張り。それでも、一話視ると続きが視たくなるから、人間とは不思議な生き物ですね。

 こんないきさつがあって、後の“韓流ブーム”でもずっと敬遠していました。ところが最近、韓国ドラマの冒頭第1話だけ無料の動画サイトに遭遇し、無料をいいことに片っ端から視てみたところ、かつての印象とはまるで違って結構面白い。おまけに日本語字幕付。

 ひと言でいうと、古典的な作りで現実離れした夢物語が多いんですね。淡々とした日本のホームドラマに飽きた世のおばさんたちが、どうりで騒ぐはずだ。あくまでドラマ内の話ですが、日本は西洋先進国と並ぶ国であり、憧れの国の一つとして描かれている。CS放送で視た一連のドラマとは百八十度違っているが、いったいあれは何だったんだろう。

 韓国へは一度しか行ったことがないものの、「反日国家」という印象はまったくなかった。20年前に視たドラマより、今日のドラマ(といっても2000年代)のほうが実際の韓国社会を反映しているように思う。

 それでも、文化の違いは痛切に感じますね。“恨の文化”といわれるだけあって、過去の恨みを伴った復讐劇が比較的多い。もう一つ、何でも他人のせいにすること。ドラマの主人公でさえ、本心ではないにせよ、他人のせいにする場面が多々あるのですから、何をかいわんやです。

ありがとうございました。

 

Re: 外国人が眺める日本

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年 2月 6日(日)18時59分35秒
返信・引用
  > No.140[元記事へ]

クロ様。

>日本や日本人であることを過剰に意識するが余り、「反日」や「親日」という実体のない「概念」を自ら創り出し、それに振り回されている

そうですね。
誰もが皆、誰かに対し、虚像を作り出しては、これを好きになってみたり、あるいは敵にみたてて攻撃してみたり。
本当は自分自身ですら、自分でこうだと思う自分と、他人からみた自分、そして本当の自分の三つの自分がある。
そして多くの場合、敵だと思って攻撃していた相手ほど、実は自分そのものだったりするのではないでしょうか。
 

外国人が眺める日本

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 1月27日(木)15時56分39秒
返信・引用
   結論を先に書くならば、日本や日本人であることを過剰に意識するが余り、「反日」や「親日」という実体のない「概念」を自ら創り出し、それに振り回されているのではないか、という一つの観方です。


 己の自意識から言えば、外国へ出たときも常に日本人として日本を眺めている。ならば、他国の人々には日本(人)がどのように映っているのだろうか、という妙な興味がふと湧いてきた。政府間の対日政策等ではなく、諸国民レベルの対日感情である。

 中国・韓国等は「反日」であり、台湾・タイ等は「親日」とする人もある。しかし、反日とされる国であっても、己が日本人であるが故に不当な扱いを受けたことは一度もない。他のアジア諸国やヨーロッパ、アメリカを旅行していても同じである。

 何故だろう。

 短期旅行だから気がつかないだけなのか。それとも、“金づる”だからお客様として丁重に扱ってくれているのか、当方を日本人と知ってのゴマすりがあるのか。

 ここのところ、しばしばタイへ出かけて行き、一ヶ月程度の比較的長期滞在をしている。ホテル住まいの観光旅行ならまだしも、マンション独り暮らしとあっては、タイ語を解さない自分でも、通訳なしに現地人と接する機会を避けては通れない。

 ところが、そんな「壁」にぶつかってこそ、初めて見えてくるものがある。それは、自分が日本人であることを意識するほど、対手は「国籍」にまるで無関心ということである。

 例をあげれば、スーパーやCD店で買物をする場合、当然ながら商品はすべてタイ語表記、店員ともタイ語で遣り取りしなければならない。勢い、タイ語を解せぬ自分が「(現地人から見た)外国人」であることを過剰に意識してしまう。そして、己が日本人であるとの自意識から、店員の応対すべてを即日本人に対する反応と結びつけてしまいがちだ。

 しかし、これは大変な錯覚に違いない。なぜなら、タイ語を解せない当方を、店員側では単なる「お客」としか見ていないのである。店員の関心は買ってもらいたいだけであって、当方を外国人と解っても、その先“何国人”であるかは問題ではない。もし、店員に英語の素養があれば、英語で話しかけるかもしれない。カタコトの日本語が出来るなら日本語で。それもこれも商売上のことに過ぎないのである。

 通訳付ながら商売抜きの会話をする機会も度々あったが、こちらが意識するほど、彼らは日本に関心を持っていない。つまり、日々の生活が第一であって、そんな生活に関係ない日本へ興味を示すはずもない、ということだろう。

 確かに、彼らの身の回りには多くの日本製品で溢れ、TVでもアニメや日本ドラマが放送されている。だが、そこから日本に対する興味に発展させる人は稀であろう。なぜなら、彼らにとって、生活に必要だから買うに過ぎず、たまたま日本製であったり日本ドラマを視ただけなのだから。

 (日本を旅行したこともない)彼らタイ人に映ずる日本は、概ね《世界の優等生で裕福な国》という漠然としたものだけであろう。だから、日本に大した関心もなく、好き嫌いの感情すら持たないのが多くのタイ国民のありのままの姿だろうし、一部に好きな人があれば逆に嫌いな人も居て何ら不思議ではない。

 日本の文化や文明を如何に受け容れたとしても、タイ人はタイ人であり、あくまで「タイ文化」の下の住人であることに変わりはない。

 次回は何時になるかわかりませんが、韓流ドラマについて書いてみたいと思います。


 

Re: <ささやかな企み>

 投稿者:SHO  投稿日:2011年 1月21日(金)19時00分2秒
返信・引用
  > No.138[元記事へ]

クロ様

>永久に無理でございましょう

やっぱりそうですかね~。
いずれにせよ、ありがたきお言葉、感謝感激です。
今後ともよろしくお願いいたします。
 

Re: <ささやかな企み>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 1月21日(金)15時20分13秒
返信・引用
  > No.137[元記事へ]

☆ SHO 様


 早速のお返事ありがとうございます。

>> 彼らが小生の企みに気付くのは、これからです(笑)。 <<

 「何とかは死ななきゃ治らない」と申しますし、永久に無理でございましょう。何せ、おのれが「馬鹿者」であることを自覚できない、否、思いたがらない人たちですから、バカにならなきゃ出来ないこともある、との悟りは開けないでしょうね。

 チャンネル櫻の捉え方は、SHOさんたち(“同志”という意味で複数)とはやや違いますが、言わんとされていることには概ね同感です。それに、他所の批判(悪口)は、疲労(ストレス)に対して恰好の良薬ですし、愉しいですからね。思う存分バンバンやりましょう。不肖わたくしが此処の「管理者」ですから、責任の全てを当方が負いますので、ご遠慮なく。

 そうして、櫻の殿堂入り(アーカイブ)第一号がこの私奴であることから、そのレベルを推して知るべし、でしょう?

 

<ささやかな企み>

 投稿者:SHO  投稿日:2011年 1月21日(金)14時09分14秒
返信・引用
  クロ様

>これは皮肉でも何でもなく、さぞかし「すっきり」なさったこととお慶び申し上げます。

ありがとうございます。
おっしゃる通りです。
なぜなら、管理室からお咎めがあるのを、今か今かと待ちわびていたのですから(笑)。
決して強がりではありません。
あのスレ<獣の交わり>は、はじめからそれが狙いだったのです。
彼らは所詮、似非保守であり、サヨクに過ぎません。
思想次元においては、これっぽっちも深みはない。
そのことを詳らかにするのが、目的でした。

彼らが小生の企みに気付くのは、これからです(笑)。



 

Re: <とうとう>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 1月21日(金)13時55分2秒
返信・引用
  > No.135[元記事へ]

☆ SHO 様


 ヤッホー! こんにちは。

 閑古鳥はおろかお化けさえ寄りつかない拙掲示板へお立ち寄り下さって、この上ない喜びであります。
 にも拘わらず、他事にかまけてお返事がおそくなり、申しわけありません。

>> 本日、とうとう、桜を追い出されてしまいました(笑) <<

 つひに“ところ払い”ですか。
 予想はしていましたが、それはそれは、よろしゅうございました。
まことにおめでとうございます。
 これは皮肉でも何でもなく、さぞかし「すっきり」なさったこととお慶び申し上げます。

 自分は飽きっぽいので、彼方に限らず「掲示板」に投稿するのがつくづく嫌になりました。愉しもうと思って書いているのに、閲覧者や投稿者(特に面識のない)には、そんな“感情”までは伝わりませんからね。冗談を冗談と受け取ってもらえず、誤解が誤解を生んで、ついつい不愉快な思いをすることがあります。ましてや思想・信条に関わる問題は、お互いに譲れない核心部分でしょうから、激しい遣り取りになって当たり前です。

 見れば書きたくなる性分ですから、あらゆる「掲示板」を見ることさえ止めてしまいました。しかし、此処は自分の「掲示板」なので、投稿があれば連絡が入りますし、管理責任もありますから、投稿が途絶えようともしばらくは続けていくつもりですけどね。

 今、彼処では何かと評判の悪い“韓流ドラマ”にハマっています。“恨の文化(韓国)”と“恥の文化(日本)”と言われる理由が垣間見える気がしています。しかし同時に、根は繋がっているんだなあ、と感じるのも事実です。まあ、あくまで物語(作り話)の世界ではありますが。

 投稿させていただいた貴スレッドとも関係しますので、この辺りについて追々書こうと思っております。

 次の機会も、是非お立ち寄りくださいませ。

ありがとうございました。

 

<とうとう>

 投稿者:SHO  投稿日:2011年 1月21日(金)06時15分52秒
返信・引用
  本日、とうとう、桜を追い出されてしまいました(笑)
核武装論者を獣の類、豚呼ばわりした罪が重かったようです。
もっとも、退出勧告は想定内。
以前の掲示板に比べ、現在の管理が偏向していることには感づいてはおりましたが、今日の桜のありようは、掲示板の運営も含め、保守派のそれにはあたらぬことを確信いたした次第です。
小生に対する退出勧告は、そのことを少なからぬ人々に悟らせることとなるに違いないといえば、自意識過剰が過ぎるでしょうか(笑)。
 

ようこそ

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年 1月 7日(金)11時28分15秒
返信・引用
  ☆ SHO 様


 こんにちは。

 ようこそお越しくださいました。
願ったり叶ったりであります。

 何しろ独りで切り盛りしておりますので、何のおもてなしも出来ずに心苦しいのですが、お気に召しましたら、いつでもお書き込みください。

 ところで、貴スレの続きなのですが、「愛」と「恋」について。

 「愛する」「恋する」と動詞になった場合、明確な区分はないものの、どちらかといえば、「愛する」が上位者から同等もしくは下位者へ向かっての感情であるのに対し、「恋する」はまったく逆の立場で発する感情のようですね。

 知りませんでした。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。

ありがとうございました。

 

<お邪魔いたします>

 投稿者:SHO  投稿日:2011年 1月 7日(金)08時43分48秒
返信・引用
  クロ様

まだ桜をお払い箱になったわけではありませんが、早くも図々しくお邪魔してしまいました。
それにしても、充実したHPですね。
見事という他はありません。
月並みな表現で申し訳ありません。
今後ともよろしくお願いいたします。
 

お疲れ様

 投稿者:帝國軍歌復興會  投稿日:2010年11月 9日(火)00時51分57秒
返信・引用
  軍歌、戦時歌謡の復興願い結成した帝國軍歌復興會と申します。
祖国を護る為、好きな恋人を護る為に散っていった英霊の鎮魂歌を聴いてみませんか?
街宣曲や軍歌着うたフルなどもありますので宜しかったら遊びに来て下さい!

http://x62.peps.jp/yasukuni559?id=yasukuni559&id=yasukuni559&_cus=l54e1n&guid=on

 

 投稿者:勇俊  投稿日:2010年10月26日(火)15時51分43秒
返信・引用
  クロさん、お集まりの皆さん、起きてますか?

シャキーンとしてますか?

いつの間にかよみがえっていますね。

まるで電気が点いている間はいないのに、消すと現れるアレみたいです。

本日これまで、またいつか。
 

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