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<影響力>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月21日(水)12時50分36秒
返信・引用
  ☆ SHO 様


 こんにちは。

 目論見どおりでしたね。

 まずは、「おめでとうございます。」と言っておきましょう。



 
 

Re: お知らせ

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月20日(火)18時08分39秒
返信・引用
  クロ様

こんばんは。

> 管理人が休暇を取得する

どうぞごゆっくりお休みください。
では、よいお年をお迎えください。
また、来年もよろしくお願いいたします。

 

お知らせ

 投稿者:管理人メール  投稿日:2011年12月20日(火)11時00分8秒
返信・引用
  みなさまへ


 こんにちは。

 気まぐれ勝手で申し訳ないのですが、年明け3日頃まで、此方への書き込みを休ませて戴こうかと考えております。
と申しましても、管理人が休暇を取得するだけで、この間、閉店するわけではございません。
 したがって、今までどおり、どなたさまも、お好きなときにお好きな話題を思うがままにご投稿くださって一向に差し支えございません。

 なお、別間(?)を設けることも可能です。
「スレッド一覧」のうち、最末尾ペンマークのある「スレッド作成」をクリックすれば、どなたでも新規スレッドを作ることが出来ます。

以上、よろしくお願い申し上げます。

 ありがとうございました。

 

Re: 医者の不養生

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月19日(月)19時12分50秒
返信・引用
  > No.277[元記事へ]

クロ様

こんばんは。

>  ええ、もちろんわかってますとも。

それならばよいのです(笑)

>  つまり、中・韓流メンタリティと“その手の患者”(註)が似て見えませんか

おっしゃる通りですね。
受容型の国民にとっては、ああいうメンタリティーは理解に苦しみます。
色んな意味でお気の毒(笑)。
 

Re: 医者の不養生

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月19日(月)13時46分4秒
返信・引用 編集済
  > No.276[元記事へ]

☆ SHO 様


 再びこんにちは。

 誤解を招いてしまったようですが、クロ様がその手の患者であるとしてお話をしたわけではなく、一般的に、医者は痛みを抱えた患者に向かってこの話をすべきではないという意味です。
 なぜかといえば、痛いのは自業自得と医者から言われた心地になって、医者に怒り始めるからです。

 ええ、もちろんわかってますとも。

 文字情報のみでは、書き手の表情等が窺い知れないので話がややこしくなってしまいますが、実はニヤニヤしながら書いていたのですよ。
“骨休め”のつもりで始まった話題ですから、軽い冗談で終わろうと・・・。

 最後の一行(↓)が私流の無駄話を締めくくる“落ち”のつもりでした。

   《これぞ中・韓流のメンタリティに則った“お返し”でありますよ。》

 つまり、中・韓流メンタリティと“その手の患者”(註)が似て見えませんか、と言いたかったわけでありました。

(註)“その手の患者”とは、医学的な真正患者を指すのではなく、よからぬ目的を企む似非患者のことですから、くれぐれも誤解なさらぬよう、お願い申し上げます。
 

Re: 医者の不養生

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月19日(月)13時09分13秒
返信・引用 編集済
  > No.275[元記事へ]

クロ様

こんにちは。

> >もっとも、患者の前でこのお話をするのはご法度なんですけれど(笑)。
>  あの~ぅ、SHO先生、ワタクシはその方面の“患者”ではないのでありますが・・・。

誤解を招いてしまったようですが、クロ様がその手の患者であるとしてお話をしたわけではなく、一般的に、医者は痛みを抱えた患者に向かってこの話をすべきではないという意味です。
なぜかといえば、痛いのは自業自得と医者から言われた心地になって、医者に怒り始めるからです。


 

医者の不養生

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月19日(月)12時09分44秒
返信・引用
  ☆ SHO 様


 こんにちは。

もっとも、患者の前でこのお話をするのはご法度なんですけれど(笑)。

 あの~ぅ、SHO先生、ワタクシはその方面の“患者”ではないのでありますが・・・。

 あ~ぁ、話を面白くするための半ば冗談のつもりが、お説教喰らっちゃった。

    骨折り損のくたびれもうけ

 冗談も休み休み言わないと、とんだ恥をかく。

ということか。



 う~む、このままじゃ悔しいから、嫌味のひとつも言っておこう。。

  “医者の不養生”にお気をつけあそばせ。

 おっほん。


 これぞ中・韓流のメンタリティに則った“お返し”でありますよ。
 

Re: 精神的苦痛?

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月19日(月)08時58分51秒
返信・引用 編集済
  > No.273[元記事へ]

クロ様

おはようございます。

> ということで、いわゆる「強制連行」「慰安婦問題」「化学兵器遺棄問題」等、
> 中・韓・北朝鮮がありもしない問題を取引材料に持ち出す場合、
> 「カネが欲しい」というシグナルだと考えてまず間違いない。

日常、交通事故による怪我の治り具合と向き合っていると、ある事実に気付かされます。
それは、やられた怪我ほど治りにくいということです。
被害者意識が強ければ強いほど、自らも本当に苦しまねばならない。
確かに、お金が目当てでしつこく通院する患者もいないわけではありませんが、多くの場合、患者は別に痛みを偽っているわけではなく、痛みというものが脳のコンディションと密接に関わっているため、脳の抱えるストレスによって、必要以上に痛みが持続してしまうのです。
のみならず、被害者意識が強いと、日常生活の疲労が原因で起こる症状までも、事故のせいだと考えてしまう。
実際、身体の不調の原因を尋ねたとき、10年も20年も前に遭った交通事故の話をしはじめる患者は要注意。
やられた感を持続させる患者の怪我は治りにくいというわけです。
反対に、受容型の患者は同じような怪我でもすぐに治りますね。
もっとも、患者の前でこのお話をするのはご法度なんですけれど(笑)。
 

精神的苦痛?

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月18日(日)20時15分58秒
返信・引用
  ☆ SHO  様


 こんばんは。

先刻は、かの地でのレス、ありがとうございました。

 いえいえ、どういたしまして。
 彼方では全く無責任な「野次馬」の一人に過ぎませんから、
どうかお気遣いなさらず、捨て置きください。

多分、うつ病をどう認定するのかという難しさなのだと思います。
整形外科でも、似たような難しさはあります。
交通事故後の首の痛みなんかも、患者の訴えを信じるしかない。
ま、こちらの方は、ある程度の期間で症状固定(治療してもこれ以上の治癒は見込めない)という診断をして、あとは後遺症診断を機械的に行うわけですが、保険会社と患者との間で板挟みになることもしばしばです。
今日は・・・本当に疲れました(笑)。

 これは大変失礼致しました。
私が書いた最後の一行が余計でした。
SHOさんの律儀なご性格をすっかり忘れて、
“骨休め”のつもりが、とんだ骨を折らせてしまいました。
 ごめんなさい。

 実は、ここだけの話ですが、
(といって公開板に書くぐらいですから、秘密でも何でもない浮世話)
この“精神的苦痛”という奴は患者(?)にとって便利な病気であります。
 何せ、“痛み”なるものが本人しかわからないのですから、
よからぬ目的(例えば「仮病」)に使ってもバレる心配がない。
つまり、金品を狙った“強請・集り”の隠れ蓑になり得る、ということ。

 まあ、これを引き合いに出すと外交問題になりかねませんが、
影響力皆無の一個人が言うのだから、笑って聞き流してくれるでしょう。
ということで、いわゆる「強制連行」「慰安婦問題」「化学兵器遺棄問題」等、
中・韓・北朝鮮がありもしない問題を取引材料に持ち出す場合、
「カネが欲しい」というシグナルだと考えてまず間違いない。
 ドラマを観る限り、そういう「お国柄」ですから。

以上、おしまひ。
  
 

Re: <国体>

 投稿者:SHO  投稿日:2011年12月18日(日)18時49分26秒
返信・引用 編集済
  > No.271[元記事へ]

クロ様

こんばんは。

先刻は、かの地でのレス、ありがとうございました。
しか~し、年賀状の作成を試みたものの、買ったばかりのPCが不調で何も成果がなく、もうくたくたです(泣)。
ゆえに、ほとんど実のあるお返事ができなくて申し訳ありません。

>  医者として一番困るのが“精神的苦痛”って奴????
> なぜなら、視認しようもなく、患者の訴えを「信じる」しかないのだそう。
>  本当ですか? SHOさん。

多分、うつ病をどう認定するのかという難しさなのだと思います。
整形外科でも、似たような難しさはあります。
交通事故後の首の痛みなんかも、患者の訴えを信じるしかない。
ま、こちらの方は、ある程度の期間で症状固定(治療してもこれ以上の治癒は見込めない)という診断をして、あとは後遺症診断を機械的に行うわけですが、保険会社と患者との間で板挟みになることもしばしばです。
今日は・・・本当に疲れました(笑)。
 

Re: <国体>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月18日(日)11時22分20秒
返信・引用
  ☆ SHO 様


 遅いおはようございます。

悦服なる言葉があるとは知りませんでした。
今度拝借しようかな(笑)。

 ええ、ぜひどうぞ。
言わずもがな、これも私の「オリジナル」ではありません。
杉浦重剛師『教育勅語御進講』の一節から拝借(パクリ)しました。

 外国の主権者は、権威(強権の威力)を以て国を建て、人民に臨む。
故にその主権者にして権威あるうちは、人民は屈服するも、
他にこれ以上の権威ある者あれば、その位置を取つて代るを得るものにして、
動物界に行はるる弱肉強食の法則に従ふ。
故に外国の君臣の関係は畏服に止まる。

 我が日本国の天皇は、人民に臨ませ給ふに権威を以てするにあらずして、
仁愛を民の心中に深く厚く植込み給ふを以て、
君臣の関係自ずから牢乎として抜くべからず、故に民は悦服するなり。

 あれっ?、“権力”が“権威”に入れ替わってる!
しかも「悦服」に対する「畏服」だったとは!
 人間のアタマというか、私の記憶力って、この程度のものです。
でも、ここでの“権威”は“権力”と同義だろうから、間違いではないでしょう?

先日NHKでブータン紀行をやっていましたが、街中に書籍で知る日本の古き良き時代を彷彿とさせる雰囲気がただよっていました。
人々は皆質素で貧しいが、貧困はないという暮らし。

 これですね、戦後日本人(アプレ)が失くしてしまったものは。
外見に拘り物欲を満たすために、「貧乏を恥とせず」の精神が忘却せられていった。
 “武士は喰わねど高楊枝”とは、物質的な豊かさを満喫する町人へのやせ我慢であったろうし、
享楽に命を賭ける価値なし、との武士としての誇りがあったからでしょう。

考えてもみれば、我々の身の回りにあるモノは、もとは誰かの想いであったものばかりです。
高層建築や道路、家電製品や食器類に至るまで、形をとってあらわれるモノは全て、もともと誰かの頭の中にあったといえます。
つまり、我々が実在として認識しているものは、全て想いがその種子であったわけです。
ならば、結果として存在しているに過ぎないもののために、その原因原理を台無しにしてしまうのは、間違っているといえるでしょう。
我々が真に守るべきは、もっとも崇高なる想いに他ならないと小生は思います。

 なるほど、そうですね。
この辺りにくるとSHOさんの独壇場でしょうから、聴き手に徹します。

 お医者さんに対してアレですが、骨休めにまったくの余談を一つ。
現役時分、健保議員を務めたことがあります。
社内衛生委員も兼ね、従業員の健康問題を話し合うわけですが、
その時、オフレコで産業医の先生から聴いた話。

 医者として一番困るのが“精神的苦痛”って奴????
なぜなら、視認しようもなく、患者の訴えを「信じる」しかないのだそう。

 本当ですか? SHOさん。

 

Re: <国体>

 投稿者:SHO  投稿日:2011年12月18日(日)00時04分8秒
返信・引用
  クロ様

再びこんばんは。

> 屈服(強制力で従わせる)させるか、悦服(悦んで従わせる)させるか、
> というのが私の持論なのですが、
> “権力”が前者に属するとすれば、“権威”とは後者でしょう。

悦服なる言葉があるとは知りませんでした。
今度拝借しようかな(笑)。

> 彼のブータン王国も、どちらが理に適った方法かがわかっているからでしょう。

先日NHKでブータン紀行をやっていましたが、街中に書籍で知る日本の古き良き時代を彷彿とさせる雰囲気がただよっていました。
人々は皆質素で貧しいが、貧困はないという暮らし。

> しかし、その本質は、案外観念的領域にあるのかもしれません。

おっしゃる通りですね。
観念(目には見えぬ想い)といわれる領域は、実在(目に見えるモノ)に先行しているだけだと小生は思っています。
両者の間には、ただ時の壁が横たわるのみです。
想いは、時の壁を潜り抜け、いずれ具現化せずにはいられない。
それが、我々が目にするこの世界におけるドラマではないでしょうか。
神の想いが時の壁をまたぐことで実在のドラマとなる。

考えてもみれば、我々の身の回りにあるモノは、もとは誰かの想いであったものばかりです。
高層建築や道路、家電製品や食器類に至るまで、形をとってあらわれるモノは全て、もともと誰かの頭の中にあったといえます。
つまり、我々が実在として認識しているものは、全て想いがその種子であったわけです。
ならば、結果として存在しているに過ぎないもののために、その原因原理を台無しにしてしまうのは、間違っているといえるでしょう。
我々が真に守るべきは、もっとも崇高なる想いに他ならないと小生は思います。
 

Re: <国体>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月17日(土)23時25分56秒
返信・引用
  > No.268[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんばんは。

国体を守ると称して徳と仁に逆らう選択(=核武装&原発依存)をするのは、ナンセンスの極みといえるわけです。

 さすがはSHOさん、我が意を得たり、であります。

 人を従わせる手段には二種類あって、
屈服(強制力で従わせる)させるか、悦服(悦んで従わせる)させるか、
というのが私の持論なのですが、
“権力”が前者に属するとすれば、“権威”とは後者でしょう。

 そして、“権力”の上に“権威(天皇)”を戴く日本。
これを統治に置き換えれば、
諸外国の歴史が概ね征服王を戴く屈服型統治であるのに対し、
日本は権威(天皇)に従う悦服型統治
と言えるのではないでしょうか。
彼のブータン王国も、どちらが理に適った方法かがわかっているからでしょう。

 高い国民性という意味で、ひと言付け加えるならば、
権威と権力の上下関係という不可視な領域まで、
本質(真の価値)を見抜く能力が備わってると言えますまいか。

 往々にして、素人(私を含む)の「国体論」は、
唯物的領域でのみ行われているようにも思います。
しかし、その本質は、案外観念的領域にあるのかもしれません。
もちろん、唯物論も観念論も“議論の両輪”には違いありませんが・・・。

 

Re: <国体>

 投稿者:SHO  投稿日:2011年12月17日(土)20時55分7秒
返信・引用 編集済
  クロ様

こんばんは。

>  《原因が結果であり、結果が原因。》とは、言い得て妙ですね。

ありがとうございます。
原因が結果であり、結果が原因となる様は、日常にもあふれていますね。
いわゆる好循環、悪循環ってヤツです。
悪循環の代表にはいくつかの病気をあげることができますが、ここでは省きます。

> 時の情勢(時流)による自然な成り行きで、いつの間にか“二重構造”が形作られてきたらしいですよ。

そうした自然な成り行きに、日本の自然環境、気候風土は大きく関わってきたに違いありません。
日本人が環境順応型であるのは、圧倒的な自然の猛威にさらされる一方、大いなる自然の恵みによって生かされてもきたから。
結果的に物事の相対性を越えたところに真理を見出そうとして、“あるがまま”という順応型の姿勢を民族として体得するに至ったのではないでしょうか。
そもそも、“あるがまま”の思想は輪廻思想なしには成立しません。
日本人の持つ輪廻転生の死生観が、実は仏教伝来以前から存在するオリジナルな感覚であったと件の書籍で知って、わが意を得たりという感じがいたしました。
四季の変化を繰り返す環境が輪廻思想を育む素地となったのは、容易に頷けることです。

>     天皇の“権威”たる所以は、「徳」と「仁」である。
>   すなはち、日本の“権威道徳”が天皇である、としておこう。

権力とは、いうことをきかせる原理であり、権威とはいうことをきく原理であるとは、なだいなだ氏の言ですが、天皇に権威があるのは、いうことをきく側の人間が、そこに聖なるものを感じるからでありましょう。
クロ様がおっしゃるように徳と仁が権威の所以なのだとしたら、それらの中に、人は神聖なる何かを感じずにはいられないということではないでしょうか。
人と獣とを本質的に分け隔てる性質。神が神である所以。
つまり、国体を守ると称して徳と仁に逆らう選択(=核武装&原発依存)をするのは、ナンセンスの極みといえるわけです。
んま、どんだけコトバを尽くしてみても、わかんない人にはわかんない理屈なのでしょうけれど(笑)。
 

Re: <国体>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月17日(土)15時03分42秒
返信・引用 編集済
  > No.266[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。

 面白くなってきましたね。

権威と権力が分離して国が平和であったことが万世一系を実現させたともいえるし、万世一系が続いたから平和であったともいえる。
原因が結果であり、結果が原因。

 《原因が結果であり、結果が原因。》とは、言い得て妙ですね。

 津田左右吉『建国の事情と万世一系の思想』に依ると、
《権威と権力の分離》も、“今(その時代)を時めく人”が望んでそうなったというより、
時の情勢(時流)による自然な成り行きで、いつの間にか“二重構造”が形作られてきたらしいですよ。

 この論文は戦後(昭和21年)のもので、戦時中に発禁処分に遭うなど、
時流(体制)に逆らう“左翼学者”と見なされていたのが、戦後も時流に逆らい続け(?)、
今度は一転、アバンゲール(戦前保守派)としての面目を躍如したわけです。

 平均的な日本人を《体制(環境)順応型》と観る私にとっては、
日本人離れ(?)した人ということになるのでしょうが、
読めば読むほど痛快愉快になるから、不思議な著述家です。
まあ、“世の常識”と違うからこそ、好奇の眼が奪われるのでしょう。

 《権威と権力の分離》という、この絶妙なバランス感覚。

 津田左右吉の受け売りでなく、以下は私個人の考えです。

  天皇が政治に関与(つまり、「親政」)しなかったからこそ、
    善政・圧政といった結果責任から逃れられた。
    成功がない代わりに、失敗もないことが幸いして「万世一系」が保たれる一因ともなった。

    “権威(AUTHORITY)”と“権力(POWER)”では、意味が異なる。
    “権力”には人に対する物理的な強制力が伴うが、“権威”にはそれがない。
    “権威”に人が従う理由は「信頼」にある。

    天皇の“権威”たる所以は、「徳」と「仁」である。
  すなはち、日本の“権威道徳”が天皇である、としておこう。

                       以 上

でした。

 

Re: <国体>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月17日(土)08時59分7秒
返信・引用 編集済
  > No.265[元記事へ]

クロ様

おはようございます。

> 日本の“お国柄”としての「国体」
> 果たして一般庶民が「万世一系」を知覚し、そう称えていただろうか。

コレコレ、これなんですよ。
国体も万世一系も、大方の一般庶民にとってはどーでもよいこと。
ミカドも将軍様もただの偉い人。
しかし、王朝が交代する他国と異なり、万世一系を守り続けたところに日本の文化的特質があるのは間違いありません。ゆえに、国体=天皇とする勘違いも生まれてくるのでしょう。

天皇が神的君主であり、権威の象徴であるならば、将軍は政治的君主であり、権力の象徴。
権威と権力が分離して国が平和であったことが万世一系を実現させたともいえるし、万世一系が続いたから平和であったともいえる。原因が結果であり、結果が原因。
勿論、戦乱がなかったわけではないものの、神的君主の座を奪おうとする政治的君主はいなかったというところが味噌なんでしょうね。

なぜ、神的君主の座を奪おうとする者がいなかったのか。
それだけ、天皇家は神聖にして不可侵な領域で、畏怖と畏敬の念を抱く対象であったのではないでしょうか。
聖なるものへの憧れと恐れ、そのシンボルが天皇であったように思います。
そして多分、天皇家に対するそういう感情は、一般庶民より権力を握っていた者の方が強かった。
実際、政治家や富豪ほど信心深いものです。

けれども、そうした憧れと恐れの感情がどこからくるのかといえば、それはやはり、わが国の豊かな自然からではないでしょうか。
四季折々の美しさに人は憧れ、災害など自然の猛威には恐れを抱く。
また、四方を海に囲まれたわが国は、他国からの侵略を寄せ付けず、王朝の継続を容易にさせたともいえるでしょう。
ゆえに、国体をどのように解釈するとしても、そこからこの国の豊かな自然環境を除外して考えることはできないと小生は思います。
そして一般庶民の国民性も、この豊かな自然の在り様と、決して無関係ではないに違いありません。

・・・黄文雄氏の著作にも、似たようなことが書かれています。
要するに、少々パクリました(笑)。
 

Re: <国体>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月16日(金)23時57分34秒
返信・引用
  > No.264[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんばんは。

好きな色も
真紅というくらいですから(笑)。

 ???????

 深紅(しんく)は真紅とも書けるのですね。
知りませんでした。
つい、「まべに」とか読んじゃったりして。

 さて、本題に戻って、私が「国体」を原義の“1”に拘るのは、
これまで遣り取りしてきた話の内容自体が、
日本の“お国柄”としての「国体」に繋がっている、と考えるからです。

 《天皇=日本》などと、ファナティックな国体論を唱える御方もありますが、
じゃあ、神武天皇以前(つまり、縄文・弥生時代)には、
この“大八洲国”が「日本」ではなかったのか、と言いたい。
 初代神武天皇の治世下、
果たして一般庶民が「万世一系」を知覚し、そう称えていただろうか。
しかも、神武天皇の実在を示す史料すら見つからないようだし・・・。

 「記紀」は、「建国神話」を含む“物語(フィクション)”であって、
西洋で言えば「ギリシャ神話」とか「聖書」の類。
「神話」は何処までいっても「神話」に過ぎず、
天照大神は“神”であって、“人間”との間には厳然とした区別がある。
そういう意味で、「記紀」全体を“史書扱い”すること自体が間違い。

とまあ、「国体」を“2”で捉えると、こうして自身が熱くなってしまいます。

 だから、“1”と捉え、主に“国民性”といった観点から進めましょうよ。
そうすれば、黄文雄氏の御本も出番があるでしょう?

では、今日のところはこの辺で・・・。

 

Re: <国体>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月16日(金)19時02分52秒
返信・引用 編集済
  クロ様

こんばんは。

>   1 国家の状態。くにがら。
>   2 国のあり方。国家の根本体制。
>   3 主権の所在によって区別される国家の形態。君主制・共和制など。
>   4 「国民体育大会」の略。
>  私が思い描く「国体」とは、原義である“1”です。

4がここに並ぶと、なんだか笑いを誘いますね。
しまった。先に「国民体育大会のことですか?」な~んて、ボケの一つもかましておくんだった(笑)。
続きのお話に期待しております。

> ぜひ頑張ってください。

まだ、少し迷いはあるんです。
以前に比べ、本業も趣味も忙しく、不特定多数の論客を相手に意見交換を続ける時間がないんですよ。
掲示板だと、それなりに責任もあるので書きっぱなしとうわけにもいきませんから、どれだけ時間的に可能かという判断が現段階で難しい。
あそこにしゃしゃりでてみようと思ったのは、年末年始のお休みをとるので時間ができそうだからですが、実はもう少しで家内が出産を迎えるので、ひょっとすると思うようにはいかないかも知れません。
まあ、クロ様のように、肯定的にお話を聞いていただける方ばかりが相手なら、ゆっくりとこうしてお返事を差し上げることもできるのですが、あそこだと次々にレスがついた場合、そういうわけにもいきません。
ついついヒートアップしてPCにかじりついてしまう恐れがあるわけです。
根が熱いんですよ。好きな色も真紅というくらいですから(笑)。
 

<国体>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月16日(金)14時20分46秒
返信・引用
  > No.262[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。

そもそも国体なるコトバ自体に馴染みの薄い世代ゆえ、何かを語れるとも思えませんが、クロ様のご意見を是非お伺いしたいと存じます。

 SHOさんのご意見こそお伺いしたいのに、それはまことに残念ですね。
まあ、ご謙遜でしょうけど。

 実は、拙HPで文部省編纂『國體の本義』をパクってきて転載するうちに興味を覚えたのです。
ただ、“戦争の時代”を反映した発刊物だけに、諸手を挙げて賛同できる代物じゃありませんけど、
“心の拠り所”としては、ほんとうに安らかな気分にさせてくれます。

 それと、単に読むだけでなく書き写したおかげで、
図らずも或る程度はアタマに残っているように思います。
昔の偉人の多くが、生計の一助を兼ねて写本に精出したのも頷けます。

 では、国体とは何ぞや。

こくたい 【国体/國體】

  1 国家の状態。くにがら。
  2 国のあり方。国家の根本体制。
  3 主権の所在によって区別される国家の形態。君主制・共和制など。
  4 「国民体育大会」の略。

 「国体論」と言った場合、明らかに“4”ではないとして、
件の書物がそうであるように、“2”(乃至“3”)の論議ということになるでしょう。
 彼方を笑いながら覗いている、などと失礼千万なことを書きましたが、仮に“3”だとすれば、
「戦後(GHQ)憲法」により、すでに「(戦前の)国体」が否定・変更されていることになるからです。
 その「戦後憲法」に依拠して、“国体護持”を叫んでいるのだから笑うしかないでしょう?

 しかし、私が思い描く「国体」とは、原義である“1”です。
“2”や“3”だと、政治思想が色濃く反映しがちですが、
“1”の場合、俗に「お国柄」という言葉もあるように、
もっとローカルで、その国の文化的側面が主要議題になり得るからです。

殴りこみだなんて、そんな乱暴な代物ではなく、釣り糸を垂れに参る感じですけれど(笑)。

 “入れ食い”になることを期待しております。
ぜひ頑張ってください。

 

Re: <八紘一宇>

 投稿者:SHO  投稿日:2011年12月16日(金)06時21分43秒
返信・引用
  クロ様

おはようございます。

> 人種も風俗も一つにするというのではない。
> 国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、
> 各自の特徴特色を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、
> 中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。

日本の歴史に照らしても、日本がそういう役割を担っていると期待する文化人は数多いと思います。
大東亜戦争ではアジア諸国独立に関し、その礎を築いたといえるわけですし、かの戦争には評価されてしかるべき部分が多々あると思います。
ただ、本願を達成するには時期尚早であったのでしょう。
やはり、子供時代の文化的共通基盤が構築される必要があったのだと思います。
それを以てはじめて戦争によらぬ共同体形成が叶うのではないでしょうか。
同様の視点から日本製の玩具が果たす役割も小さくないと思っています。
あとは食文化ですかね。
意外なところでは、戦争で荒廃した国の人たちや災害にあった気の毒な方々の非常食として日清のカップヌードルが健闘しているようです。

> 国体論議

そもそも国体なるコトバ自体に馴染みの薄い世代ゆえ、何かを語れるとも思えませんが、クロ様のご意見を是非お伺いしたいと存じます。

>  えっ、「かの地」って「彼の地」(=彼方)のことですか?
> つひに殴り込み、いいですねえ。

殴りこみだなんて、そんな乱暴な代物ではなく、釣り糸を垂れに参る感じですけれど(笑)。
クロ様とのやりとりから編み上げた主張を用いてみようかと思っています。

 

Re: <八紘一宇>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月16日(金)02時42分36秒
返信・引用
  ☆ SHO 様


 おはようございます。(←日付変わって午前なので)

八紘一宇というコトバ、田中智学による「掩八紘而為宇」からの造語

 はい、確かにおっしゃるとおりで、この語を知ったきっかけも、
戦後GHQによって焚書・発禁となった戦前・戦中の書物・用語等に、
「凛とした日本人」の秘密が隠されているような気がしたものですから。

 しかし、私が重要視したいのは、
『日本書紀』に識された文字から採られている点です。
つまり、神代の昔(?)からこうした考えが底流にあったという事実。
 そして、造語した田中巴之助自身、

人種も風俗も一つにするというのではない。
国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、
各自の特徴特色を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、
中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。

との趣旨を述べていますし、外国との交流もなかった神武天皇の御代に、
世界統一(征服)の野望を抱いていたとは、とても考えられませんよね。

世界を席捲する日本のアニメ・漫画文化のコンテンツは侮れないと思っています。(以下略)

 ソフトで日本が輸出できるのは、アニメと漫画だけ、
などと、半ば自嘲気味に宣う御仁が多い中で、
素晴らしい洞察眼を持ってらっしゃいますね。

 余談になりますが、文化大国のフランスでも、
今(といっても数年前の話)や日本の漫画ブームだそうです。
吹き出し等は当然ながらフランス語に翻訳されるわけですが、
擬声語の多さに音(洒落ではない)を上げているとか。
動物の鳴き声ならまだしも、花が“バッ”と咲く、“ギラギラ”した太陽、
果ては物音一つしない状態を表す“シ~ン”に至っては、
もう完全にお手上げらしいですよ。
それほどに、日本人の感性は豊かなんでしょうね。

・・・近いうちに、かの地に再び舞い戻るかも知れません(笑)。

 えっ、「かの地」って「彼の地」(=彼方)のことですか?
つひに殴り込み、いいですねえ。

 私の場合、教育を別にすれば、「国体論」がわりかし好きで、
ときどき彼方さんを覗いては、笑い転げているのですが・・・。
こちらでもやりませんか、「国体論議」。

 

Re: <八紘一宇>

 投稿者:SHO  投稿日:2011年12月15日(木)23時57分12秒
返信・引用
  クロ様

こんばんは。
八紘一宇というコトバ、田中智学による「掩八紘而為宇」からの造語だそうですが、昭和44年生まれの小生には、ほとんど馴染みがありません。
ゆえに、小生としては自称保守派諸氏に対する皮肉も込めて地球市民でも全く差し支えないのでありますが(笑)、クロ様のお好みに合わないとのことですから題名の変更に異議はございません。

>  彼君と意見が一致するのは、日本を“共同体国家”と見なすこの一点のみ。
> “心の拠り所”を共有できる場所に人は自然に集まる。

この意味で世界を席捲する日本のアニメ・漫画文化のコンテンツは侮れないと思っています。
なぜなら、世界の国々の子供たちが同一文化を共有するという事態は、歴史上かつてなかったことであり、彼らが大人になったときに文化的な共通基盤を有しているという事実は、世界が本当の意味で単一の共同体をつくり得る可能性を示唆しているように思うからです。
そこには日本の歴史が醸成したコスモポリタン的な価値観が潜んでおり、それに感化された世界の国々の子供たちが大人になったとき、どのような時代を築くのか期待せずにはおれません。
確かに、現在を生きる我々にとっては、地球市民など非現実、机上の空論でしかないでしょうが、未来を生きる人々にとっては、必ずしもそうではありません。
過去と現在、そして現在と未来とでは、それぞれに状況が異なるわけですから。

> 彼方に巣喰う“自称”保守派こそ、敵国の論理に嵌った“アプレ集団”と、言っておきましょう。

小生のスタンスは未だに自分でもよくわかりません。
ただ、先刻読了した「日本人はなぜ世界で尊敬され続けるのか」にありましたが、日本という国は、世界の人々の幸福にとって敵となるものを粉砕する役割を担っているという意見に深く首肯するもので、その大義に少しでも貢献できる自分でありたいと願っています。
そのためならば、少しばかり己のポリシーを曲げてみても良いのかなと・・・

・・・近いうちに、かの地に再び舞い戻るかも知れません(笑)。
 

<八紘一宇>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月15日(木)15時26分16秒
返信・引用
  ☆ SHO 様


 こんにちは。


黄文雄の「日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか」
保守系の掲示板では、地球市民的な発言をすると、得体の知れぬサヨク・コスモポリタンとして非国民的な評価を頂戴してしまうことがありますが、日本人とは元来コスモポリタン的であり、相手の人種国籍を問わず深い思いやりを示すことのできる稀有な国民性を有していたことがうかがえます。

 “地球市民”の語感が嫌いなので、勝手にお題を変更してすみません。
でも、“コスモポリタン的”国民性には同感です。
何せ、全人類を一つの家族と見なす“八紘一宇”の国ですから。
ところがWEB辞書には、
《第二次大戦期、日本が海外侵略を正当化する標語として用いた。》
などと、余計な一行が挿入されている。
敵国史観でさえ、斯くもあっさり受容してしまうところが、如何にも日本人らしい。

 結論から先に書いておきますが、

  日本文化をひと言で表現すれば、《多様性の文化
  国民性をひと言で表現すれば、《環境(体制)順応型

と考えています。

 要するに、根が《寛容》で、良くも悪くも《お人好し》なのでしょうね。

 さて、某“自称保守”系掲示板、この際はっきり言うと「桜板」ですが、
黄文雄さんとはまったく逆趣旨のスレッドが立ってますね。
 スレ主の神様(固有名詞)を名のる御方は、
持ち上げたり貶したりするのが殊の外巧みな人(柱?)で、
先様がどうお思いか知りませんが、妙にウマが合います。
自分(私)が気づかなかった自分(私)の一面を抉り出してくれます。

 彼君と意見が一致するのは、日本を“共同体国家”と見なすこの一点のみ。
あまつさえ、面識を有する御方でもない。
なのに、なぜか「同じ仲間・同胞(はらから)」という気がしてならないのです。

 その理由は、どうやら《共同体》の響にありそうです。

きょうどうたい 【 共同体 】
 家族や村落など、血縁や地縁に基づいて自然的に発生した閉鎖的な社会関係、または社会集団。協同体。

 彼君が宣はせらる幼児語然り。
亡父に似た口調然り。
時偶飛び出す我が故郷“九州訛り”然り。
こうした“心の拠り所”としての血縁・地縁を想起させてくれるところに、
親近感が生まれるような気がします。

 親近感を呼び覚ますのは、ゲゼルシャフト的な“意見(思想)の一致”ではない。
意見(思想)は違っても、“心の拠り所”さえ何某か共感できるものがあれば、それが磁石となって人と人とを引き寄せてくれるのではなかろうか。
つまり、“意見(思想)の統一”を叫べば叫ぶほど人は遠ざかり、
“心の拠り所”を共有できる場所に人は自然に集まる。
でしょう?

 某掲示板は、この辺りを履き違えているように思います。
尤も、典型的なゲゼルシャフト集団ならでは当たり前。

コスモポリタンをサヨクとして忌み嫌う性質も、それらをあからさまに批判してのける様も、むしろ極めて現代的な日本人の姿であるといえそうです。
この本を読んで、小生は自らのコスモポリタニズムを誇りに思うようになりました(笑)。

 大いに結構じゃありませんか。
“八紘一宇”に照らすなら、それでこそ誇りある伝統的な日本人ですよ。
彼方に巣喰う“自称”保守派こそ、敵国の論理に嵌った“アプレ集団”と、言っておきましょう。
その点、“八紘一宇”を“地球市民”に読み替えれば、サヨクのほうがよほど先人の思いに近いですよね。

 

<地球市民>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月15日(木)08時45分48秒
返信・引用 編集済
  クロ様

おはようございます。
実は、現在、黄文雄の「日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか」を読んでいるところです。
過去の日本人は世界の国々の人々からどう見られていたのかという視点で書かれた本です。
これを読むと、我々現代日本人がいかに多くの優れた資質を失いつつあるのかがわかります。

時折、保守系の掲示板では、地球市民的な発言をすると、得体の知れぬサヨク・コスモポリタンとして非国民的な評価を頂戴してしまうことがありますが、この本を読む限り、日本人とは元来コスモポリタン的であり、相手の人種国籍を問わず深い思いやりを示すことのできる稀有な国民性を有していたことがうかがえます。
また、外来文化の吸収に長けていたとされる一方、ヨーロッパ文化の根本をなす批判精神は根付かなかったともあります。
仮に、相手を攻撃する場合があったとしても、相手の誇りを傷つけてしまうところまではせず、ほどよいところで手を緩める。狭い島国で皆が仲良く共生するための知恵なのでしょうね。
ということは、コスモポリタンをサヨクとして忌み嫌う性質も、それらをあからさまに批判してのける様も、むしろ極めて現代的な日本人の姿であるといえそうです。

結局のところ、他人を批判してのける前に「ヒトのふり見てわがふり直せ」が、伝統的な日本人の在り方なのでしょうね。昔の人は、人が人としていかにあるべきかを良くわかっていらっしゃったのでしょう。
この本を読んで、小生は自らのコスモポリタニズムを誇りに思うようになりました(笑)。
 

Re: 原始人と現代人

 投稿者:SHO  投稿日:2011年12月14日(水)22時27分36秒
返信・引用 編集済
  > No.256[元記事へ]

クロ様

こんばんは。
返信の早い遅いは全く気にいたしませんので、クロ様もどうぞご自身のペースでお相手して下さい。
小生もいたってマイペースな部類ですので(笑)。

> 《おのれの「弱さ」を自覚することによって、真の「強さ」を知る》
> これが、先生の狙いだったのでしょう。
> 《“世間様”に助けられながら自分は生きている》
> と理解するようになったのは、ずっと後年になってから、ここ数年来のことです。

クロ様は先生に恵まれていらっしゃいますね。
でも、自慢するわけじゃありませんが、小生も師には恵まれているんですよ(笑)。
先生と生徒との出会いも医者と患者との出会いと一緒で、縁なのでしょうね。

> そんなことはどうでもよく、《ご先祖様は争いを好まず柔和で優しかった》
> と信じて、その血を継ぐを誇りとしたほうが、ずっと「幸福」だと思います。

ご先祖様の名誉と誇りを傷つけない子孫でありたいものです。
 

Re: 原始人と現代人

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月14日(水)13時31分53秒
返信・引用
  > No.255[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。

 他事にかまけて遅くなり、すみません。

おっしゃるように、仮に我々が縄文時代にタイムスリップしたとしても、そこでできることなど、高が知れています。
  ~ 中略 ~
縄文時代には、争いや略奪の痕跡がなかったという説を耳にすることがありますが、その時代、既に現代の我々をはるかに凌ぐ進化した意識を獲得した時代があったのかも知れませんね。

 なぜ《人間は必ずしも「進化」してない》という考えを持つに至ったのか。

 そもそもは小四時分、どんなきっかけだったか、もう忘れましたが、
個人的に「強くなりたい」と担任の先生に訴えたことがあります。
 先生答えて曰く、《独りで生きていける人間が一番強い》。
《腕力ある者が一番強い》と信じる子供(私)にとって、意外な答でした。

 そして、「この世に人間はお前一人しかいない。」と暗示をかけられ、
熾火ほかの課題を与えられたのですが、惨めな結果は推して知るべし。
先生から散々虚仮にされてしまいました。

 そのときは、子供ゆゑに理解出来ませんでした。
SHOさん風に言うならば、
《おのれの「弱さ」を自覚することによって、真の「強さ」を知る》
これが、先生の狙いだったのでしょう。
《“世間様”に助けられながら自分は生きている》
と理解するようになったのは、ずっと後年になってから、ここ数年来のことです。

 それに、有史以前への関心などなかったのですが、
しかばね(当板でのHN)さんに触発されて津田左右吉を知り、
岩波文庫『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(全八巻)
を購入してしまいました。

 未だ部屋の片隅に山積状態で、殆どさわりしか読んでいませんが、
《縄文時代には、争いや略奪の痕跡がなかった》とのSHOさん説(?)を
裏付けるかのような記述が見えます。

 縄文人と弥生人では人種が違うみたいな説もあるようですが、
そんなことはどうでもよく、《ご先祖様は争いを好まず柔和で優しかった》
と信じて、その血を継ぐを誇りとしたほうが、ずっと「幸福」だと思います。
 

Re: 原始人と現代人

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月13日(火)19時21分42秒
返信・引用
  クロ様

こんばんは。

>  ただ、他人や先人のおかげで、おのれの生活の大部分が成り立っているにも拘わらず、
> 古代人よりも現代を生きる我々のほうが優れていると錯覚し、
> 不遜になりがちな面を慎みたいだけである。

おっしゃるように、仮に我々が縄文時代にタイムスリップしたとしても、そこでできることなど、高が知れています。
何かの知識を使えたとしても、それらは全て先人の編み出した財産であり、古代人と比較して現代人が優れていると思うのは大いなる勘違いなのでありましょう。
全ては歴史の上に築かれている。
小生にいたっては、既に超古代において現代と同等の文明を築いた時代があったというトンデモ論を信じている位ですから(笑)、尚更そのように思います。

小生のいう意識の進化とは、経験を深めた存在の本質が、その意識を神の領域に向かって高めていくことを指しています。そのように人間精神の在り方をみるとき、共同体を構成する個々の意識のレベルに応じて文化のレベルがあり、且つ又その文化のレベルに応じて、個々の意識の進化があるように思います。
縄文時代には、争いや略奪の痕跡がなかったという説を耳にすることがありますが、その時代、既に現代の我々をはるかに凌ぐ進化した意識を獲得した時代があったのかも知れませんね。
 

原始人と現代人

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月13日(火)16時54分0秒
返信・引用 編集済
  > No.253[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。

 あっ暗くなってきましたから、もう「こんばんは」ですね。

またもや先走ってしまうようで恐縮ですが、せっかちな性分故ご意見を待ちきれず(笑)、
進化論について愚見をば少々述べてみたいと思います。

 いいえ、いいえ、とんでもございません。
偉そうに書いたものの、理数系赤点だらけの私奴ゆゑ、
生物学的知識など何も持ち合わせておりません。
おかげさまで助かりました。
ありがとうございます。

 実はですねえ、何ともお恥ずかしい話ですが、
「進化論」の“進化”とは、生物学上のEVOLUTION(展開)を指し、
必ずしも“進化する”の意味ではないことを知らず、文字通り受け取っていたのですよ。
 ですから、自分自身を標本に採ってみた場合、ご先祖様に較べて
果たして自分は進化して(優れて)いるのだろうか?
との単純素朴な疑問があったわけです。

 出発点からして誤謬があるのですから、的外れな結論になるのは当然です。
ということで、この辺で引き下がれば恥をかかずに済むのですが、
“瓢箪から駒が出る”可能性がなきにしもあらず。

 そこで、「進化論」そのものでなく、
古代人(ご先祖様)と現代人の比較論に話をすり替えましょう。

 人間が未来へ向かって「進化」することに懐疑的だからといって、
逆に「退化」していくとまで考えてはいません。
ただ、世の中が便利になるにつれ、「苦労」「我慢」「忍耐」「克己」等を必要とする機会が減り、
かつ昔に較べて束縛要因も軽減され、“自由”を与えられた現在、
限りなく「怠惰」に陥りやすくなっていることだけは確かでありましょう。

 自給自足の昔は、自らが労働せねば、喰うことさえままならなかった。
食糧とて、自ら得たものしかないから、食事の選り好みが出来る環境ではなかった。
つまり極端な話、古代人は否応なく、すべてを自らが行わなければならなかった。

 独り暮らしだと、その「苦労」がよくわかる。
今では“山の神様”が居なくとも、家電品が独り者に代わってやってくれるから特段の支障はないが、
だからといって、家電品にしても自らが製作したものではない。

 古代人に較べて現代人は、遙かに豊富な「知識」を蓄えているかもしれない。
しかし、書物を読んだり、師に学んだり、見聞きして得た「知識」とて、
元を質せば他人あるいは先人が持っていた財産・遺産に過ぎない。
結局、独自なものなど皆無に等しく、
単に他者の財産・遺産を引き継ぎ、利用しているだけではないのか。

 家電品・知識・文明の利器、その他何でもいいが、
現代人はこれらを、あたかも独力で創り出したかのように、
錯覚してはいまいか。
 ここに、重大なる錯誤がある。

 古代人には、“自分のことは自分でする”以外に選択肢はなかった。
けれども現代人には、見知らぬ他人や先人の“智慧”という財産・遺産があるから、
これを利用させてもらうことによって、快適な暮らしが可能になっただけの話。

 “世間様”と敬称付で世の中を呼ぶのは、
こうした“智慧”に対する感謝の念が籠められているのだろうと思う。

 単に“自分のことが自分で出来る”ことを以て、古代人を礼賛するつもりはない。
 ただ、他人や先人のおかげで、おのれの生活の大部分が成り立っているにも拘わらず、
古代人よりも現代を生きる我々のほうが優れていると錯覚し、
不遜になりがちな面を慎みたいだけである。

《追伸》

“有史以前の人”のつもりで「古代人」としましたが、
これだと聖徳太子の時代を思い浮かべられそうですね。
申しわけありませんが「原始人」or「縄文人」と読み替えてください。
 

<進化論>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月13日(火)08時50分12秒
返信・引用 編集済
  > No.252[元記事へ]

クロ様

おはようございます。

>  以下、余談になりますが、「進化論」に懐疑的な理由については、もったいぶって別稿に移します。

またもや先走ってしまうようで恐縮ですが、せっかちな性分故ご意見を待ちきれず(笑)、進化論について愚見をば少々述べてみたいと思います。

いわゆるダーウィンの進化論は、進化のきっかけとして自然淘汰と突然変異でもって説明が試みられていますが、ほんの少し考えてみるだけで、その論理の欠陥を指摘することができまるように思います。
例えば、突然変異という現象は偶発的に遺伝的な変異が生じることを指しますが、そうした変異が個体生存に有利はたらくとは限りませんし、第一、交配が進めばその遺伝形質は希薄になってしまうので、劣性となるのが当たり前。そうなると突然変異は種の進化にまで結びつくことはあり得ません。

また、眼球のように複雑精緻な器官においては、中途半端な進化の過程を飛び越え、はじめから完成された構造を有していなければ何の役にも立たないので、遅々とした微小な変化の累積を仮定すること自体がナンセンスです。
つまり、生命はあらかじめこの世界とは別の次元ないしは領域でデザインされて誕生したと考える方が納得がいくのです。
確かに、自然淘汰による適者生存の事例を観察することはできますが、それでは種の垣根を飛び越えるほどの大進化を説明できないというわけです。つまり、進化の道筋を偶然に求めることは決してできない。
では、進化そのものがなかったのかというと、やはり、そうではありません。なぜなら、胎児の成長過程は明らかに進化の道筋をなぞっているからです。

そもそも、進化という現象は熱力学第二法則に反します。通常、熱力学第二法則によれば、形あるものは壊れる、覆水盆に返らずの言葉通り、意味あるものは時とともに無意味な状態、即ち乱雑な状態へと向かいます。オレンジジュースを100億年攪拌してみたところで、オレンジには成りえません。
これはエントロピー増大の法則と呼ばれ、時間の不可逆性を示しているわけですが、この法則は外界とのエネルギーのやりとりを行わない閉鎖系でのみ成立する法則です。

ところが、宇宙全体の変遷を俯瞰すると、ビッグバンに始まり、島宇宙が生まれて恒星や惑星を有する太陽系が誕生し、挙句の果てには生命のように複雑な系を生み出すにいたっています。
これは即ち系の外側からエネルギーが加えられたことを示す証拠であり、我々の宇宙は、その外側との間にエネルギーのやりとりがあるということを示唆しているのです。

一方では、地球に誕生した生命進化の理由、即ち熱力学第二法則に反する理由は、地球が閉鎖系にあるのではなく、太陽からエネルギーを受け取る開放系にあるからだとする意見もありますが、それはおかしな話です。なぜなら、地球も太陽も宇宙という系の一部に過ぎないものであり、宇宙全体を閉鎖系としてみるなら、やはり、そこには熱力学第二法則の破綻がみられるとしか言いようがありません。
つまり、この宇宙は開放系にあって、別の次元ないしは領域から、何らかのサポートを受けていると考えた方が無理がないのです。

おそらく、進化は何者かの意志を表現するための手段に過ぎず、我々の目をくらますために偶然を装っているだけではないでしょうか。宇宙と生命の進化は、そこに宿る意識の進化、深化、神化を表現しているに違いないと小生は信じています。
 

Re: 真の「幸福」とは何か。

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月13日(火)03時21分45秒
返信・引用
  ☆ SHO 様


 おはようございます。(←午前3時を過ぎたので)

興がのってきたようです(笑)。

 そのようですね。
結構なことであります。
朝のお早い御方がこんな夜更けに。
投稿を知らせるメールに、さては愉快犯でも出没し始めたか、と思いましたよ。

日本においては神仏習合は勿論、クリスマスをも平然と祝う宗教的な寛容があります。これはおそらく人間精神のもっとも優れた特質であり、進化した意識の顕れです。

 人間進化論に懐疑的な私にとって、些か「進化」の文字が気になりますが、人間精神の優れた特質という点において首肯します。

 「幸福」を国語辞典のまま解釈すれば、“満ち足りた状態”。
これを裏返せば“不平・不満のない状態”です。
そうすると逆転の発想で、幸福になりたければ、不平・不満をなくせばよいことになります。
 「寛容」には、不平・不満を減らす効果もありますから、まさに「幸福」を引き寄せるキーワードでありましょう。
 まあ、不平・不満といっても、一線を超えなければ、
未来を創造する際に必要な起爆剤には成り得るわけで、
差し詰め“悪玉コレステロール”といったところでしょうか。

 おっと、お医者さんを前にして、下手な講釈を垂れてしまいました。

 以下、余談になりますが、「進化論」に懐疑的な理由については、
もったいぶって別稿に移します。

 では、失礼して寝ます。

 おやすみなさい。

 

Re: 真の「幸福」とは何か。

 投稿者:SHO  投稿日:2011年12月13日(火)01時02分12秒
返信・引用 編集済
  クロ様

再びこんばんは。
興がのってきたようです(笑)。

>  似て見えるタイと日本との間で決定的な違いは信仰心の厚薄にある

果たして信仰心が希薄になってしまった大方の日本人は、それに厚い国々の人たちと比べて退化してしまったのでありましょうか。
小生はそうではないと思うのです。
ご存知のように、日本においては神仏習合は勿論、クリスマスをも平然と祝う宗教的な寛容があります。これはおそらく人間精神のもっとも優れた特質であり、進化した意識の顕れです。
さすれば、何ゆえ我々は信仰心を失ってしまったのでありましょうか。

歴史的な背景はさておき、我々は信仰の大切さを学ぶために、一旦、それを失っているだけだと小生は思うのです。実際、失ってみてはじめて、信仰の何たるかがわかるというもの。
社会全体が人生を納得させるに足る道理を見失ったとき、あるいは聖なる存在との関わりを希薄にしたとき、何が起こるのかを我々は堪能しているのでありましょう。
ゆえに、その苦悩から生み出される何かに期待せずにはおれません。
 

Re: 真の「幸福」とは何か。

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月12日(月)23時34分41秒
返信・引用
  > No.249[元記事へ]

☆ SHO 様


 再びこんばんは。

海外(主に東南アジア)へ研修に行った後輩たちが申しておりましたが、現代日本人に比べ、外国人は圧倒的に祈る時間が長いのだそうです。
現代では、心のバランスに支障を来たした人々は心療内科のご厄介になるのが定番ですが、本当は、祈る習慣をとり戻すだけで、随分多くの方々が心の平衡を取り戻すことができるに違いないと小生は思っています。我々に必要なのは、本当に人生を納得させるに足る道理なのだと。

 ほぼ、結論めいたものが出た感じですね。

 タイに在っても、都会へ行くほど日本の現状と変わらないように思います。
ただ感心するのは、挨拶を交わす際、何でもない普通の人でも、
ごく自然に両手を合わせる(合掌する)習慣を今なお守っていることです。
これがタイの伝統的な挨拶の仕方なのでしょう。
そうした習慣を持たない私からみると、
何だか自分が拝まれているようで、それだけで嬉しくなってしまいます。
 TV番組でも、ニュースのアナウンサーはもちろん、どんなおふざけ番組であろうと、
例外なく合掌付挨拶に始まり、合掌付挨拶で終わります。

 仏教国とされる他の東南アジア諸国も、この挨拶は共通ですが、
都会か田舎かに関係なく、社会主義国ほど形骸化し、公式な席以外、
一般庶民が合掌することはほぼないと言っていいように思います。

 これが日本ならお辞儀ということになるのでしょうね。
今はTVを視ないのでどうなのか知りませんが、アナウンサーも番組出演者も、
その昔はカメラ(視聴者)に向かって深々としたお辞儀があったように記憶します。

 似て見えるタイと日本(「日本人である私個人」と言い換えたほうが誤解がないかも知れない)との間で、
決定的な違いは何だろう、と考えてみるとき、それは「信仰心」の厚薄にあるような気がします。

 仏教にしても、法事や葬式ぐらいしか馴染みのない私と違い、
人々が心から信仰しているように思う。
そしてタイには、仏教以前の精霊信仰があって、
お地蔵さんみたいな路傍の道祖神には献花が絶えないし、
市中至る所にある祠にも供物類が鴉の餌になる前に取り替えられている。
 国王・王室に対する尊崇の念も、理屈を抜きにした最早信仰に近いものと言ってよい。
翻って自分は、天皇・皇室に対してそこまでの感情があるか、
と問われれば、はっきり言って口籠もらざるを得ない。

と、わかっちゃいるけど、容易に出来ないんですよね。これが。
 
 

Re: 真の「幸福」とは何か。

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月12日(月)19時33分31秒
返信・引用 編集済
  クロ様

こんばんは。

>  なぜなら、元来、神が世界(人間界)を創造したのではなく、人間がそのような神なるものを想像(創造)しているだけでしょう?

おっしゃる通りです。
人間の側で、神とはかくあるに違いないと想像を深めているに過ぎないので、本当のお姿については、通常、わからないとしかいいようがありません。
けれども、神との一体性を獲得したといわれる聖者の言においては、神がいかなる存在であるかについて、共通の証言(という表現が適切かどうかはわかりません)があるようです。
まあ、これも信じる信じないは各自のご自由ですけれど(笑)。

> 戦死すれば即護國の「神」として靖國神社に祀られる。
> すぐにでも「神」になれそうな、そういうごく近しい関係
> 日本人の場合は、「自然を“神”に見立てた万物の恵みに対する感謝」

もともと神と人との間に明瞭な区分を設けない東洋的な思想においては、それがごく自然なことなんですよね。
神は全てに宿るという汎神論的な視点です。

>  またまた昔話になってしまいますが、戦前・戦中の映画には、朝日夕日を問わず、太陽に向かって合掌するシーンがしばしば観られます。
> 自分自身を振り返ってみると、子供時分まで、食事に際して合掌する習慣等も含めて、確実にそうした習わしがありました。

戦後、信仰心を失ってしまった日本人の心の空隙を埋めるかのように科学合理主義が蔓延してきたように感じられます。そして信仰を捨て去った人々が追い求めたのは、確実に目に見える富、即ち現世的利益であったのでしょう。ところが、それを追求しても、決して幸福にいたることはできなかった。

海外(主に東南アジア)へ研修に行った後輩たちが申しておりましたが、現代日本人に比べ、外国人は圧倒的に祈る時間が長いのだそうです。
現代では、心のバランスに支障を来たした人々は心療内科のご厄介になるのが定番ですが、本当は、祈る習慣をとり戻すだけで、随分多くの方々が心の平衡を取り戻すことができるに違いないと小生は思っています。我々に必要なのは、本当に人生を納得させるに足る道理なのだと。

 

Re: 真の「幸福」とは何か。

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月12日(月)18時55分50秒
返信・引用
  > No.247[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんばんは。

主に西洋では、完全なる神が創り賜うたはずの世界が何故かくも不完全であるかについて思い悩まれることがあるようです。

 いきなり突飛なことを言い出して恐縮ですが、私は出発点が逆だと思います。
 なぜなら、元来、神が世界(人間界)を創造したのではなく、
人間がそのような神なるものを想像(創造)しているだけでしょう?
 こういうことは、教理にどっぷり漬かったお偉い神学者より、
無知な「馬鹿者」に宗教的禁忌がない分、むしろ明確に指摘できます。

 聖書もそうですが、各国神話を科学的見地で捉えようとしても、
そこには多くの矛盾が出てきてしまいます。
当たり前です。
遠い祖先とて人間が生まれる以前を知る由もなく、
人智の及ばない事象を悉く「神の御業」ということにして、
おのれを納得させていたのでしょう。

 従って、史実かどうかが問題ではなく、
大祖先が「神話」という“物語(フィクション)”を想像(創造)するに至った背景を探ったほうがもっと有意義な気がします。

 おっしゃるとおり、西洋の人々にとって、
「神」と「人間」では明確な区分があって、
人間がどう足掻いても神にはなれない。
しかし、日本での「神」はお一人、いや一柱ではないし、
戦死すれば即護國の「神」として靖國神社に祀られる。
すぐにでも「神」になれそうな、そういうごく近しい関係なのですよね。

 余談ですが、靖國神社へお参りに行って真っ先に“日本的なるもの”を感ずるのは、
軍馬・軍犬・伝書鳩を祀った慰霊碑です。
此処だけかと思ったら、ほかにも同趣旨の墓地や神社が各地にあるようです。
そしてなんと、つい先日までお世話になったタイにもあるそうですよ。

http://blogs.yahoo.co.jp/uzbekistan24/50354954.html

タイ国内には戦没者の慰霊碑は数多くあるが軍馬の慰霊碑はここだけだそうだ。

 ミャンマー(ビルマ)との国境に近いクンユアム日泰友好戦争博物館や、
インパール作戦の足跡を辿って国境を越え、
ミャンマー側へ入ったことはありますが、
この軍馬慰霊碑のことは知りませんでした。
ナコンサワンといえばアユタヤの隣町、
つまりは今回のタイ洪水災害発祥の地(?)。

 以上は余談の余談でしかありませんが、
戦死者だけでなく、生死をともにした馬、犬、鳩ら動物をも、
さながら“戰友”の如く分け隔て無く祀る日本人の心根の優しさ、
を言いたかったのであります。

今あるこの瞬間に感謝の気持ちを抱くことができさえすれば、
本当は誰もが皆幸福になれるのかも知れません。

 まったく同感であります。

 またまた昔話になってしまいますが、戦前・戦中の映画には、
朝日夕日を問わず、太陽に向かって合掌するシーンがしばしば観られます。
自分自身を振り返ってみると、子供時分まで、
食事に際して合掌する習慣等も含めて、確実にそうした習わしがありました。

 西洋画“ミレーの晩鐘”なら「創造主なる唯一神への祈り」でしょうが、
日本人の場合は、「自然を“神”に見立てた万物の恵みに対する感謝」でしょう。
ところが、現代を生きる我々は、この習慣を蔑ろにしてしまった。
日常生活の基本が崩れてしまっている以上、これを正さない限り、
何事も元どおりにはできない。
でしょう?

 「分相応」という言葉も廃れてしまいましたねえ。
「幸福」なんて取るに足りない日常生活のなかにヒントが隠されているのに、
欲をかいて高望みばかりするから、却って「幸福」に嫌われてしまう。
 そう考えると、「忍ぶ恋」を理想とした『葉隠』の恋愛観にも合点がいきます。

 「艱難、汝を珠にす」が示すとおり、
享楽とは最も縁遠い「苦労」「我慢」「忍耐」「克己」といった、
現代では敬遠されがちな語のなかにこそ「幸福」に近づく第一歩があるように思います。

 

Re: 真の「幸福」とは何か。

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月12日(月)08時27分10秒
返信・引用 編集済
  クロ様

おはようございます。

>  礒山氏も日本人でしょうから、「地上」「天国」の代わりに「現世」「来世」の語が用いられているものの、現在もなおキリスト教神が人々の生活に直結している西洋ならではの「幸福観」
>  しかし、失敗もしでかす人間的な八百万神の下で暮らす日本にあっては、「現世」も「来世」も、「神」も「人間」も大差なく、勢い「この世」の享楽に耽りがち

主に西洋では、完全なる神が創り賜うたはずの世界が何故かくも不完全であるかについて思い悩まれることがあるようです。
神ご自身と、被造物たる人間とはあくまで別という認識がそこにはある。
しかし、完全の何たるかを知るためには、不完全の何たるかを知らねばなりません。
ゆえに、完全なる神が己の何たるかを知るためにこの世界を創ったのだとすれば、この世界が不完全であるのは当たり前の話ということになります。
そして神ですら、一旦この不完全な世界に肉の身をまとえば、過ちも犯さずにはおれなくなってしまうということではないでしょうか。
神と人間との間に明瞭な境を設けぬ一元論的発想が東洋的といえるのかも知れません。

>  おおかたの日本人なら、「この世」に幸せを求め、かつ分相応の「ささやかな幸福」なら概ね実現可能であろうことから、多くは納得して死ねる(幸福な死)ように思います。

足るを知る限り、幸福はいたるところにあるといえそうです。
その一方、欲を満たそうとする限り、不幸に付け入る隙を与えることになってしまう。
健康不安を抱えて病院を日参するご年配方がおっしゃるには、80まで生きれば次は90、90まで生きれば次は100まで生きたい、一年でも二年でも長生きしたいのだそうです。
ところが、そうやって生きながらえた年月でもって何をするのかを尋ねてみると、これが別に何かをしたいわけでも、何かをしなければならないわけでもなさそうです。
ただ一日でも長生きしたいというだけ。
歩けなくなってしまう不安を抱えて生きるくらいなら、歩ける間に行きたいところに行けばよいし、行きたいところがないなら、歩けなくなる不安を抱えるまでもないだろうと思われますが、そういうものでもなさそうです。
そうしたご年配の様子を見るにつけ、欲というものには際限がなく、足るを知ることの難しさを思い知らされます。
今あるこの瞬間に感謝の気持ちを抱くことができさえすれば、本当は誰もが皆幸福になれるのかも知れません。
 

Re: 真の「幸福」とは何か。

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月11日(日)20時18分21秒
返信・引用
  ☆ SHO 様


 こんばんは。

 早々のご返信、ありがとうございます。
こういう話だと「興がのってきます」、でしょ?

ゆえに、ハッピー(笑)。

 まずは、「よろしかったですね」と祝福を差し上げておきましょう。

 で、つまらないことですが、ときどき御玉章(←懐かしき“備中處士”さんみたい)に「(笑)」の文字が躍動しますね。
これには、“SHO”を捩る意図が籠められているのでしょうか?
それにしては「(大爆笑)」「(泣)」といった感情の起伏がみられませんね。
 なお、言うに事欠いての思いつきですから、御回答には及びません。
なぜなら、コトの“真相”があからさまになるより、在ること無いこと推理している時のほうが愉しい(笑)。

 それはともかく、英語の“HAPPY”と日本語の『幸せ(な)』とは、必ずしも同義ではない気がします。

happiness
 1 幸福,幸せ,喜び,満足
 2 (表現などの)巧妙,適切

かうふく 【幸福】
 満ち足りていること。
 不平や不満がなく、たのしいこと。

 う~む、並べてみると、やっぱり同じように見えてしまいますねえ。
なぜ異なるように思うかと言いますと、
クリスチャンでもないクセして、バッハの宗教楽(受難曲・カンタータ等)を好んで聴きます。
もちろん、ドイツ語歌詞にある聖句に惹かれるわけではなく、純音楽として聴いてるだけですが。

カンタータ第82番“ICH HABE GENUG”(邦題「我は満ち足れり」)

 礒山雅氏執筆のライナーノーツによると、

 「マリア潔めの祝日」の福音書章句は、救い主としての幼子イエスに出会い、心満たされて死に赴くシメオン老人の物語を伝えている。
 台本はこのシメオンを「私」に見立て、安らかな死への甘美にして熱烈な憧憬を歌い出した。
 曲はまず、イエスを抱いた老人の感動をまざまざと伝えるハ長調のアリアに始まる。
 続くレチタティーヴォで「満足」の対象は来世へと転換され、変ホ長調の子守歌へと入ってゆく。
 ここでの安息の表現とこの世へのきっぱりした訣別の対比は、感動的である。
 こうして魂は現世に最後の別れを告げ、協奏曲風の終結アリアにおいて、死への待望を物狂おしいほどの喜びをこめて歌う。

 礒山氏も日本人でしょうから、「地上」「天国」の代わりに「現世」「来世」の語が用いられているものの、現在もなおキリスト教神が人々の生活に直結している西洋ならではの「幸福観」ですね。

 しかし、失敗もしでかす人間的な八百万神の下で暮らす日本にあっては、「現世」も「来世」も、「神」も「人間」も大差なく、勢い「この世」の享楽に耽りがちなのは仕方のないこと。
 宗教的禁忌から解放されている分、『教育勅語』や『武士道』といった倫理道徳の縛りがなければ、禽獣に等しい世の中になってしまうということでしょう。

 おおかたの日本人なら、「この世」に幸せを求め、かつ分相応の「ささやかな幸福」なら概ね実現可能であろうことから、多くは納得して死ねる(幸福な死)ように思います。
ただ、わずかに「この世」で叶わぬ幸せを、「来世」に託して起きるのが“心中事件”。
いかがでしょう?

 思うがままに書いていたら、支離滅裂な投稿になってしまいました。

ごめんなさい。

 

Re: 真の「幸福」とは何か。

 投稿者:SHO  投稿日:2011年12月11日(日)17時38分53秒
返信・引用 編集済
  > No.244[元記事へ]

クロ様

こんばんは。

> 実は、私が「馬鹿者」を自称しているのは、こうした“わかっていてできない”ことが、一つや二つではないからです。

何を隠そう、小生は「大」馬鹿者の一人でありまして(笑)、その傲慢さにかけては、かの板で小生を凌ぐ者はいないと自負している位です。
あるがままの思想に則った生き方をわが国の歴史上の偉人に見出すとすれば、良寛和尚でしょうか。
良寛和尚にまつわるいくつかのエピソードが本当だとしたら、限りなくあるがままの境地に近かったのではないかという気がいたします。

>  だったら“裁くな”という思想がSHOさんとするなら、それでも“裁こう”としたがるのが私奴というところでしょうか。

実は、“裁くな”と言ってしまうと、裁いてはならないという正義を振りかざすことになってしまうので、そこに矛盾が生じてしまいます。
あるがままの思想とは、“裁くな”ではなく、あくまで“裁かない”生き方なのです。
付け加えるならば、それでも誰かを裁かずにはおれない己自身をも裁かないということでもあります。
他人に対して正義を振りかざすのを好む人は、その正義によって、自らが裁かれてしまうのが定め。
自己嫌悪によって人が苦しむのは、自らの正義の故です。
まずは自らに対して寛容であってはじめて、あるがままの境地に近づくわけですが、そもそも、そこにたどり着くには、やはり、あるべき姿を求めなければなりません。
傲慢の何たるかを知る者が謙虚を知り、誇りの何たるかを知る者が恥を知り、臆病の何たるかを知る者が勇気を知るのと同じように、あるべき姿の何たるかを知る者があるがままを悟るに至るのではないでしょうか。

>  ブータンが幸福度ナンバーワン(かどうか知りませんけど)の国というのも、俗世界の埃にまみれていないという意味で、わかる気がします。

我々は今、こうして幸福を得ることの難しくなった国に住むからこそ、何が本当に大切であるかに気付くチャンスがあるというわけです。
実は、古いインド哲学によれば、神がこの有限にふるまう世界を創造なさった理由も、まさにそれだというのです。
無限の神が己自身の何たるかを知るためにこの世界をお創りになり、そこで自らが神であるという己の素性を忘れて戯れているだけなのだそうです。
この世界は神様にとって、自分探しのゲーム空間。
ゆえに、自らの素性を悟るとき、解脱に達する(生まれてくることがなくなる)と。
我々が生きる究極の目的というわけですね。
人生とは味わいに他ならない。
まあ、証明できるような類のモノではありませんから、信じる、信じないは各自の自由なのでしょうけれど、小生自身はこの思想によって、自らの人生を納得するに至ったという次第です。
ゆえに、ハッピー(笑)。

 

Re: 真の「幸福」とは何か。

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月11日(日)15時47分26秒
返信・引用
  > No.243[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。

 馬鹿者(即ち私奴)にもわかるよう、丁寧に御説明くださって感謝に堪えません。

“あるがまま”の思想
自らの外側にあるものに対して、己の正義を振りかざすことをしない、即ち“裁かない”というスタンスです。

 う~む。これぞまさしく「馬鹿者」とは対極を成す思想。
道を究めた「解脱者」でなくては到達し得ない境地でしょう。

 なるほど“外”なるものを“裁いてはいけない”とわかっていながら、つい“己の正義”を振りかざしたくなるのが、また人間(←この場合、私自身)の哀しい性(さが)でもありますね。
実は、私が「馬鹿者」を自称しているのは、こうした“わかっていてできない”ことが、一つや二つではないからです。

 そこで思い出すのが塙保己一の逸話です。

■ 第二十課?塙保己一(はなは-ほきいち)

?世にはあきめくらとて、目は見えながら、文字の讀めざる者あり。又、文字は讀めても、多くの書物を讀み、博く知識を得たる者は少なし。然るに目の見えずして、大學者となりし人あり。塙保己一是なり。

?保己一は五歳の時盲となりしが、深く學問を好み、人に書物を讀ましめ、一心に之を聞きて勉強したり。記憶力強く、一たび聞きたることは、決して忘れざるほどなりしかば、遂に名高き學者となり、非常に多くの書物を著はせり。保己一の家は、今の東京、其の頃の江戸の番町にありき。多くの弟子保己一に就きて學びしかば、時の人

??「番町で目あき、目くらに物をきき。」

といひたりといふ。

?或る夜、弟子を集めて書物の講義をせし時、風俄かに吹き、來りて、ともしび消えたり。保己一は、それとも知らず、講義を續けたれば、弟子どもは

??「先生、少しお待ち下さい。今、風であかりが消えました。」

といふ。保己一は笑ひて、

??「さてさて、目あきといふものは不自由なものだ。」

といひたりとぞ。


・ 練?習

一、左の文を口語體に改めてごらんなさい。

(イ)塙保己一は盲人なりしも、世にら珍らしき大學者となれり。
(ロ)保己一は自ら書物を讀む能はざれしも、人に讀ませて之を
??聞き、よく記憶して忘れざりき。

二、保己一が書物の講義をした時のことをお話しなさい。

三、はたらく詞は、普通に其のはたらく部分を送り假名とするものです。

??讀まず??學びて??好む??行けば?等

四、稀にははたらかぬ部分にも、讀みやすいやうに、送り假名をつけることがあります。

??表(あら)はす…表(へう)す?滅(ほろ)ぼす…滅(めつ)す
??出(い)だす…出(だ)す?等

五、はたらかぬ詞にも、讀みやすいやうに、送り假名をつけることがあります。

??且つ??甚だ??若し??能く??直ぐに??直ちに?等

         ~ 朝鮮総督府普通學校『國語讀本』巻六より ~

 健常者から見れば、目の見えない人を一律に不幸で可哀想と思いがちです。
ところがこの話は、当の本人自身、不幸とも憐れみを受けようともまったく考えてもいない、ということですよね。
 すると、同情や憐れみといったせっかくの親切心さえも、相手の気持を察した上でないと、人によっては“余計なお世話”だし“要らざるおせっかい”となり、一瞬にして憐れむ側の偽善行為に変わってしまう。

 神でも仏でもない人間にとって、どうも“裁くこと(価値判断)”自体が難しい。

 だったら“裁くな”という思想がSHOさんとするなら、それでも“裁こう”としたがるのが私奴というところでしょうか。
なぜなら私は欠点の多い「人間」のままでありたいし、なかんずく「馬鹿者」を自認していますから。

仮に、"幸福な死”の何たるかを説明するとするならば、それは“自らが己の人生に納得した死に方”といえるのではないでしょうか。
そして自らの人生を納得せしめる道理、それが信仰ではないでしょうか。

 結論に至るまでのプロセスや表現は違いますが、御趣意には共感します。
 私奴の思い描く“ありのまま”とは、自分自身を偽らないこと。
即ち誰が何と言おうと”バカ正直””クソ真面目”な人間でありたい。
それが『質実剛健』につながる生き方だと思ってますから。

 まったくの余談ですが、事の怖さを知らなかった人に向かって、半ば呆れ顔で「お前って幸せな男だなあ」と評することがありますね。
これですよ、これ。
生半可な知識などないほうが、幸いすることもある。
子供の持つ純真さ、素朴さは、俗世界の埃にまみれてない(世間知らず)からこそ保たれているものではないでしょうか。
常識ある大人なら出来ないことでも、子供は平気でやってのけますね。
常識という“怖さ”を知った大人がするには勇気が要るが、“怖さ”を知らない子供にとっては勇気などなくとも普通にできてしまう。

 同様に、“誇り”があるから対義語の“恥”を知り得るのではないでしょうか。
そして、近代主義がもたらした物質文明の悪しき慣例として、何事も金銭に換算する風潮に辟易します。
金銭に換えられないからこそ貴い価値があるってものでしょう。
人間の生命然り。『教育勅語』然り。意外なところでは「想い出品や写真類」。

 火事で焼け出された知人曰く、
「物品や金銭ならこれから何とでもできるが、写真だけは撮り直す訳にいかないからねえ。」

 自画自賛めきますが、何やら真理の端っこに近づいてる気がしてきましたよ。
 ブータンが幸福度ナンバーワン(かどうか知りませんけど)の国というのも、俗世界の埃にまみれていないという意味で、わかる気がします。
 

Re: 「幸福な死」について、お聴かせください。

 投稿者:SHO  投稿日:2011年12月11日(日)07時27分47秒
返信・引用 編集済
  クロ様

おはようございます。

>>持ちたい馬鹿には持たせておけばそれでよい

お言葉をかえす格好になってしまうので大変恐縮ですが、この台詞には、ある思想が隠されています。
短いコトバで説明するなら、“あるがまま”の思想とでもいいましょうか。
自らの外側にあるものに対して、己の正義を振りかざすことをしない、即ち“裁かない”というスタンスです。
持ちたい馬鹿者は、その愚かさによっていずれ自ら滅ぶ。
それは、輪廻転生と因果応報の法則によって、我々の下した選択はその全てが、時をまたいで正確に我々自身の運命を決定付けるという意味です。
もし、我々の住む世界が核の炎に包まれて滅びる様を観ることがあるとすれば、本当はそれを観る我々一人ひとりの裡に、その運命を招き寄せる因があったに違いありません。
この世で起こるいかなる幸、不幸にも、無関係などあり得ない。
我々の眼に、その耳に入る全てには、縁がある。
ゆえに、向き合うべきは常に己自身であるというわけです。

>  SHOさんがお考えの「幸福な死」とは、具体的にはどういう“死に方”を指しておられるのでしょうか。

“あるがまま”の思想に立つとき、実は幸、不幸の価値判断そのものが消滅してしまいます。
一切を受容するとき、幸福であるとか、不幸であるとかの相対性が消滅してしまうからです。
ゆえに、幸福な死なるものをあるがままの思想によって事細かに表現することは憚られますが、誰かに説明する際、便宜的にそうしたコトバを用いねばならぬ場合もあります。
仮に、"幸福な死”の何たるかを説明するとするならば、それは“自らが己の人生に納得した死に方”といえるのではないでしょうか。
当たり前の話ですが、人生とは、その死に方を含めて人生です。
己の人生に納得して日々を送れる人は、明日死ぬとしても、そこに無念はありません。
自らの人生に納得して死を迎える人には、今この一瞬に幸福があるのと同じように、明日死ぬとしても、そこに幸福があるのだと小生は信じます。
そして自らの人生を納得せしめる道理、それが信仰ではないでしょうか。

 

「幸福な死」について、お聴かせください。

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月10日(土)18時27分22秒
返信・引用
  ☆ SHO 様


 こんばんは。

少なくとも我々庶民レベルでは核武装なんぞには断固反対、断固拒否でよいのだと思っています。
我々を支援して下さった、あるいは下さっている誰かに核の矛先を向けるようなことがあっては断じてならないからです。
核は、持ちたい馬鹿には持たせておけばそれで良い。

 私奴もほぼ同じ考え方ですが、文末の一行だけは正反対です。

  持ちたい馬鹿にこそ「核」を持たせるべきでない

 まあ、前後の文脈からして軽口話的部分でしょうから、何か深淵な心(うら)がある謂いではないですよね。
ならば冗談話に噛み付く私奴は、世に隠れもない「真正馬鹿者」ということか。
ああ、よかった。
幸せだなあ。

原発がなくとも慎ましく心豊かに暮らすことはできるし、核兵器がなくとも戦って誇り高く死ぬことはできる。それで十分ではないでしょうか。
生き残ることばかりが幸福の条件ではあり得ません。
なぜなら、幸福な死というものが確かに存在するのですから。

 何だか『葉隠入門』における三島由紀夫の死に方解説みたい。
言われてみれば、生きる上での「幸福」しか頭にありませんでした。

 映画『南京の真実』第一部(第二部以降は何時まで待てば公開されるのやら)では、松井大将が「自分は長く生きすぎた」としみじみ洩らす場面がありましたね。
韓流歴史劇でも、圧政・虐殺・汚職を窮めた乱世を目の当たりにして、王族・貴族・儒者らが似たような台詞を吐くシーンがよく出て来ます。

 SHOさんがお考えの「幸福な死」とは、具体的にはどういう“死に方”を指しておられるのでしょうか。
お差し支えなければ、是非お聴きかせ願いたく存じます。

 ちなみに三島は、同書で次のように書いています。

 われわれは、一つの思想や理論のために死ねるという錯覚に、いつも陥りたがる。
しかし「葉隠」が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もないむだな犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのである。
もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくだろうか。
いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。

まあ、件の板では決して理解してはもらえぬでしょうけれど(笑)。

 さきほどチラッと覗いたら、いよいよ“終焉の時”が始まったようですよ。
私のような彼方様への恩讐を既に捨てた完全部外者(=野次馬)にとっては、どうなろうと知ったこっちゃありませんけど。
と言いつつ、こうしてしっかり話題にしちゃったりして・・・。

 

Re: 「東北大震災」と「タイの洪水災害」

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月10日(土)13時24分41秒
返信・引用 編集済
  > No.240[元記事へ]

クロ様

こんにちは。

>  せっかく「幸福論」が佳境に入ったところで、別の話題に振って申しわけありませんでした。

いえいえ、そのような感じ方は全くいたしておりませんので、ご心配なく。

>  国と国との間でも、こうしたお互いが助け合う関係でありたいものですね。
> 記事を読んでいるだけで、心が温かくなってきます。

全くです。
ゆえに、少なくとも我々庶民レベルでは核武装なんぞには断固反対、断固拒否でよいのだと思っています。
我々を支援して下さった、あるいは下さっている誰かに核の矛先を向けるようなことがあっては断じてならないからです。
核は、持ちたい馬鹿には持たせておけばそれで良い。
原発がなくとも慎ましく心豊かに暮らすことはできるし、核兵器がなくとも戦って誇り高く死ぬことはできる。それで十分ではないでしょうか。
生き残ることばかりが幸福の条件ではあり得ません。
なぜなら、幸福な死というものが確かに存在するのですから。
まあ、件の板では決して理解してはもらえぬでしょうけれど(笑)。

 

「東北大震災」と「タイの洪水災害」

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月 9日(金)20時44分7秒
返信・引用 編集済
  ☆ SHO 様


 こんばんは。

 せっかく「幸福論」が佳境に入ったところで、別の話題に振って申しわけありませんでした。

 お話を戻して、「奪う」より「与える」に関してです。

 チェンマイ滞在中、いつも食料買い出しに行くリンピンスーパーマーケットのホームページに、チャリティワークとして次の記事が載ってました。

 世界中の誰にとっても、与えるという行為は大切なことである。
最近日本で起きた災害の被災者を支援しよう。
現地の大きな損失規模をはかれば取るに足りない義援金でも、日本の被災者に対して支援を示し、そして彼らの復興支援につながる。
 リンピンスーパーマーケット全店または弊社の銀行を通じて寄付することで、日本の津波被害にあった被災者支援に参加しよう。

 以下略。

*リンピンスーパー*(タイ語・英語・一部日本語)
http://www.rimping.com/

 タイ語を邦訳した文章でしょうから、日本語としてはややおかしな部分もありますが、その気持は十分伝わります。
何度も足を運んでいながら、こうした取り組みは全く知りませんでした。知ってみれば、レジ附近に義援箱があったような、なかったような・・・。

 このスーパーは日本食材が豊富で、おでん種から納豆まで揃ってまして、たぶん商売上の取引関係があってのことかもしれません。
しかし、芸能界でも、タイポップス界の大御所バード・トンチャイさんを筆頭に、激励のメッセージや義援金が多数寄せられていますから、特異な現象とも言えないようです。

 その“恩返し”でもないでしょうが、今回のタイ洪水災害では、関西地区の消防職員や府県職員が中心となって、日本の支援部隊が派遣され、現地民から大いに感謝されています。

 国と国との間でも、こうしたお互いが助け合う関係でありたいものですね。
記事を読んでいるだけで、心が温かくなってきます。

 

Re: 「対価」と「代償」

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月 9日(金)15時54分57秒
返信・引用 編集済
  > No.238[元記事へ]

クロ様

こんにちは。

> おかげさまで、自己の劣点(短所)を気にし思い悩むことが如何に無意味であるか、よくわかりました。

おっしゃる意味はよくわかります。
この相対世界においては、すべてがそのようにできているのでしょう。
往々にして長所だとか短所だとかの特質も、実は同じ性質の顕れ方の違いでしかないことに気付かされます。
極端な長所は極端な短所を引き連れている、あるいは、その逆もまた真ということでしょうか。
 

「対価」と「代償」

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月 9日(金)14時23分54秒
返信・引用
  ☆ SHO 様


こんにちは。

人は、誰かや何かの幸せを奪って、自分だけが幸福になることはできません。
我々が築いてきた物質的な豊かさというのは、本質的に、その全てが何者かから奪い取ってきたものばかりでつくられているのではないでしょうか。奪うだけではいくら豊かになっても、幸福を得ることはできません。
自然から何かを奪ったのであれば、その分、自然に何かを返す努力がなければ、幸福には辿りつくことができないということです。
同じように、誰かの何かを奪って得たものについても、応分以上の何かを与えることがなければ、やはり、幸福に達することはできません。
実際、マネーゲームに興じる人々というは、一時的に物質的な豊かさだけを手に入れることができても、その分、幸福は遠のいてしまっている。

 以前に何処かで書いた憶えがあるので“二番煎じ”になり恐縮ですが、

  何かを得ると同時に、それに見合う何かを失っている。

のではないでしょうか。

 「対価」を得たら、必ずその「代償」を支払っている、という関係。

 会社を辞めた後、再就職する気もないのに失業手当欲しさのさもしい根性にて、しばらく品川ハローワークに通いました。
新宿ハローワークで、「中高年再就職講座」を受講すれば、就職活動したことになる、と聞いたからです。

 ある日、就職するに当たって自己の優点と劣点を列挙せよ、とのお題を頂戴しました。
受講生に共通するおおかたの優点は、「社会経験豊富」、「熟練技術がある」。
一方、劣点に挙げたのが「年齢が高い」。

 最初は誰も気づきませんでしたが、優点といってもそれは自らが劣点に挙げた「時間を消費(?)して」得たものにほかならなかった。
おかげさまで、自己の劣点(短所)を気にし思い悩むことが如何に無意味であるか、よくわかりました。
 

Re: 真の「幸福」とは何か?

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月 9日(金)08時55分48秒
返信・引用 編集済
  クロ様

おはようございます。

>赤ちゃんは、誰か(複数)を幸せにするために生まれてくる

確かにそうに違いありません。
ところが、産まれたての赤ん坊というのはエゴの塊で、自分の欲求を通すことだけがその主な仕事です。
当たり前といえば当たり前の話なのですが、核家族化が進み、夫が仕事で留守の間、日がな一日そういう赤ん坊と一人で向き合うことを強いられた女性のストレスは筆舌に尽くしがたいものがあるようです。

そのストレスが嵩じて女性が理不尽な言動を繰り返すようになると、それを支えきれなくなった男性の意気地のなさゆえか、はたまた、働いて帰ってくる男性に対する女性の感謝の念のなさゆえか、赤子を授かって間もなく離婚を選択する若い夫婦を見かけることもしばしばです。

実は、家内が二人目の子供を身ごもって、とうとう臨月を迎えました。
今から9年前、長男が産まれてしばらく、かくいう小生も離婚の危機を迎えておりましたので、子供に恵まれぬご夫婦にとっては贅沢な話に思えるかも知れませんが、素直にその誕生を楽しみにすることのできない己を見出していたたまれなくなることがあります。
人間万事塞翁が馬とは、よく言ったものです。

> それが、個々の小さな能力を持ち寄って、お互いが足りない部分を補い合う(助け合う)ことにより、全知全能神に見合う完全無欠の世の中(共同体)を築き上げさえすればよい
> そうすれば世の中全てが丸く治まる

おっしゃる通りですね。
人は、誰かや何かの幸せを奪って、自分だけが幸福になることはできません。
我々が築いてきた物質的な豊かさというのは、本質的に、その全てが何者かから奪い取ってきたものばかりでつくられているのではないでしょうか。奪うだけではいくら豊かになっても、幸福を得ることはできません。
自然から何かを奪ったのであれば、その分、自然に何かを返す努力がなければ、幸福には辿りつくことができないということです。
同じように、誰かの何かを奪って得たものについても、応分以上の何かを与えることがなければ、やはり、幸福に達することはできません。
実際、マネーゲームに興じる人々というは、一時的に物質的な豊かさだけを手に入れることができても、その分、幸福は遠のいてしまっている。
その事例について、我々は多くを見てきたように思います。
この世界は、間違いなくそのようにできているのではないでしょうか。

 

Re: 真の「幸福」とは何か?

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月 8日(木)21時15分15秒
返信・引用
   チャンネル桜がまだ24時間放送だった頃、「子育て塾」という番組があった。
独り者がどうして?と思われるかもしれないが、ちょうど会社を辞めた時期と重なり、ヒマなので見るとは無しに視ていた。

 すると番組の中で、田下昌明講師が、

  『赤ちゃんは、誰か(複数)を幸せにするために生まれてくる。

と意味ありげな講義をされているではないか。

 え~っ?本当かいな。
嘘か真か確かめようのない話だから半信半疑で聴いていたが、“自分のため”ではなく、“誰か他人のため”というところに莫大な興味が湧いた。

 考えてみれば、日本昔話の「一寸法師」「かぐや姫」「桃太郎」など、みんな子宝に恵まれなかった善良な老夫婦に天が授けている。
これは、彼ら(赤ちゃん)が善良な老夫婦を幸せにするために生まれてきた、と観ることも出来よう。

 戦前・戦中の映画を観ていると、「お役に立つ」という台詞が頻繁に出てくる。
今では“滅私奉公”と並んで絶滅寸前、死語同然となってしまったが、日本はもともと、個人主義国家とは成り立ちが違う。
始めに集団ありきの“共同体国家”である。
『世間様あっての自分』との考え方はそのことを裏付ける一例で、「お役に立つ」の謙った語も、そうした自覚から生まれた言葉だろう。
“世間様”とわざわざ敬称をつけるのは、神様(普通名詞)や仏様並みに、おそらく世間を自分より上位に観る言い方ではないだろうか。

 なぜ、個人ではなく集団なのだろう。

 ご先祖様は、早くから《人間は一人では生きていけない》ことに気づいていた。
そして、一神教の神でもない限り、個々の人間は全知全能ではありえないことを知っていた。
ならばどうすればよいかの“智慧”も備わっていた。
それが、個々の小さな能力を持ち寄って、お互いが足りない部分を補い合う(助け合う)ことにより、全知全能神に見合う完全無欠の世の中(共同体)を築き上げさえすればよい、とした。
そうすれば世の中全てが丸く治まる、というわけ。

 この“世間様”の成り立ちがわかって、初めて「お役に立つ」が光彩を放つ。
“滅私奉公”も、私=自分、公=世の中・他人、と置き換えれば容易に理解出来よう。

 それで以て、「お役に立つ」ことが即ち「幸福」といえるかどうかわからないが、少なくとも私は、何事か簡単な手助けをした後の「ありがとう」のひと言だけで満ち足りた気分になる。
お役に立てた自分も嬉しいが、頼んだほうも気分が悪かろうはずはない。つまり、“嬉しさ二倍”である。

 他人様のことは知りませんが、おのれが外国へ出て最初に覚える言葉が、「ありがとう」と「ごめんなさい」。
まあ、手前勝手な偏見と言われればそのとおりかもしれませんが、この二つの言葉をよく耳にする国の人々は、総じて表情が明るく映ります。
その反対の国は、言わずもがな暗い。
差し支えも出てくるから、何処の国かは言及しませんけど・・・。

 

Re: 真の「幸福」とは何か?

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月 8日(木)14時30分11秒
返信・引用
  > No.234[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。

小生もそう思います。
件のブータンの首相は、感覚的な歓びを満たすこと、即ち欲求を満たすことと幸福とは違うものだと明言されていました。
物質的な豊かさの追求というのは前者に相当しますから、当然、その先に幸福はないということになります。
そして、物質的には恵まれているであろう先進国に住まう人々は、そのことを実感しているのではないでしょうか。
だからこそ、今、ブータンに注目が集まっているのでしょう。

 ありゃりゃ。な~んだ。
別稿で書くなんてもったいぶったけど、結論めいたことを先に書かれてしまいましたね。
ブータン首相の言及があったことは知りませんでした。
しかし、書こうとしたこととそれとは視角が異なるものの、趣意にすれば似たようなものです。

 はい、以上でした。
で終わってしまうと、書き込む以外にも、ひょっとして閲覧に徹した奇特な読者がいらっしゃるかもしれないので、やっぱり夜にでも駄文にまとめましましょうかね。

楽しみにしております。

 どうせ、がっかりなさるのが“落ち”でしょうから、あまり御期待なさらぬようお願いいたします。
 

Re: 真の「幸福」とは何か?

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月 8日(木)13時17分52秒
返信・引用
  > No.233[元記事へ]

クロ様

こんにちは。

>物質的な豊かさより精神的な豊かさのなかに幸福がある
>欲求さえ満たされれば、それが最大幸福なのか
>実はそうではない

小生もそう思います。
件のブータンの首相は、感覚的な歓びを満たすこと、即ち欲求を満たすことと幸福とは違うものだと明言されていました。
物質的な豊かさの追求というのは前者に相当しますから、当然、その先に幸福はないということになります。
そして、物質的には恵まれているであろう先進国に住まう人々は、そのことを実感しているのではないでしょうか。
だからこそ、今、ブータンに注目が集まっているのでしょう。

>これについては、別稿で書かせて戴きます。

楽しみにしております。
 

Re: 真の「幸福」とは何か?

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月 8日(木)10時45分35秒
返信・引用
  > No.232[元記事へ]

☆ SHO 様


 おはようございます。

勿論、わかっておりますですよ。
でも、最初出会った少女の面影に、純真無垢、あるいは純朴だった頃の自分を重ねていたってところは、やっぱ恋なんじゃないかと(笑)。
なんてったって、相手に虚像を見出すのが、小生の思う“恋”の定義なもので。

 う~む、どうも“恋愛”の定義というか、観方がだいぶ違いますね。

 独り者が偉そうによく言うよ、とお思いかもしれませんが、私は、上から目線だと、”愛する”ことができても“恋する”ことはできない、と思ってますから。
なぜなら、“恋い慕う”という言い方があるように、“恋する”には相手をやや上位に置いた軽い尊敬の念が伴っているような気がします。
 古くは“愛”と“恋”の遣い分けがあった、と何かの辞典で知ったものですから、それ以降、つい・・・。

 まあ、「愛」も「恋」も「幸福」もみんな感情であり、抽象的な概念でしょうから、頭を使って“理屈”を捏ねまわすより、“好き”というならそれが「愛」でも「恋」でもいいじゃないか、ということですよね。
そして、“蓼喰う虫も好き好き”と言いますから、人それぞれに思い描く概念が違っていて当然なのでしょう。

 少女のほうが自分より幸せそうに見えたというのも、あくまで当方の勝手な判断であり、当の少女が実際に幸福感を抱いていたかどうかは判りません。
 しかし、私自身が、物質的な豊かさより精神的な豊かさのなかに幸福がある、と価値判断していることだけは確かなようです。

 そこで思うのですが、おのれの欲求さえ満たされれば、それがその人にとっての最大幸福なのだろうか、ということです。
実はそうではなかろう、と考えています。

 これについては、別稿で書かせて戴きます。
ただし、別のテーマでも何でもお書き込みなさりたいことがあれば、どうぞご遠慮なくお先にどうぞ。

では、一旦引っ込みます。

 

Re: 真の「幸福」とは何か?

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月 8日(木)08時11分23秒
返信・引用 編集済
  > No.231[元記事へ]

クロ様

おはようございます。

>  出会いの少女と25歳の娘さんは、明記したように“人違い”なんです。正真正銘の“別人”です。
> カネ・知識・経験等、何から何まで豊富に手にした自分より、少女の態度に人間として“あるべき姿”をみる思いがしたというだけの話です。
>  有り体に言えば、自分に比べて何も持ってないであろう少女の、幸せそうで満ち足りた表情から、逆に“教えられた”のですよ。

勿論、わかっておりますですよ。
でも、最初出会った少女の面影に、純真無垢、あるいは純朴だった頃の自分を重ねていたってところは、やっぱ恋なんじゃないかと(笑)。
なんてったって、相手に虚像を見出すのが、小生の思う“恋”の定義なもので。
んで、人違いだった女性の家庭に投じた支援は、見方を変えれば上位に立つ者の傲慢に他ならず、相手を堕落させただけだったという下りは、日本のODAの結末を見るかのごときだという感想なわけです。
もっとも、人違いにも関わらず、その家庭を支援しようとなさったクロ様の優しさは尊いと小生は思います。おそらく、ご自身の苦労体験によって培われた優しさなのでしょうね。

神様がどうして我々の願いを全て叶えてくださるわけではないかといえば、それはやっぱりそういうことなのだと小生は思っています。頼まれて何でも与えるばかりが愛ではない。時には大いなる苦しみの中にこそ、尊いメッセージ、即ち神々の贈り物が託されているのではないでしょうか。
人智では解決しがたい困難に遭遇する方々を見る、あるいは自らがそれに遭遇するたび、そこに託されたメッセージを探さずにはおれません。
 

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