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Re: 日本人の国民性

 投稿者:SHOメール  投稿日:2012年 1月10日(火)12時55分58秒
返信・引用 編集済
  クロ様

こんにちは。
今回の序論、興味深いですね。

> 読むにつれ、信じきっていた《日本人像》が悉く覆される思いがしている。

小生の場合、日本人像が覆されるというほどの感慨には至らないようです。
とはいえ、昔の日本人の気質と現代の日本人の気質に、全体として大衆レベルでは共通項を見出せるというのが面白いですね。

>  楽観的で快活な気分が養はれた代りに、安易な生活をする者の常として、得難いものを得ようとする希求の念が弱く、従つて強い意志が無く、奮勉努力の精神、冒険的の気象などは養はれなかった。満足はしつゝも人生其のものに対して深い執着が無く、飽くまでも人生の歓楽を領略しようとする情熱が乏しい。我を忘れて踊り狂ふ調子も無い。すべてが軽快で、うはすべりがしてゐて、低調で、微温的である。争闘と苦痛と不安との間から生まれる反省沈思の念はいふまでもなく生じない。これが我が上代人の有つていた楽観思想の半面である。

まるで今流行りの草食男子の起源を見るようです(笑)。
ここから垣間見える事実とは、上代人は楽観的であったということ。そして穏やかで平和的であったということですね。敵がいないから葛藤もない。あるいは、葛藤がないから、敵もいないのかも知れません。深い執着がないから、略奪も起こらない。
けれども一方では“満足”しているわけですから、幸福がある。
要するに、足るを知っていた。
否、足らざるを知らなかったというべきでしょうか。
蛇にそそのかされて禁断の実を食べる以前のエデンの住人を思わせます。
それはまた黄氏の指摘する古の日本人像と何ら矛盾するものでもありません。

>  かういふ民族が或る時期に於いて我が皇室の下に統一せられたのである。地方的小君主は概して甚だしき抵抗なしに服従し、其の大部分は旧のまゝに豪族として配下の土地人民を所有することになつたらしい。勿論、武力も用ゐられたではあらうし、後々までも、かの出雲建や熊襲建の伝説によつて知られる如く、多少の反抗者は出たであらうが、大体からいふと、一旦統一せられた後は、多くの豪族は喜んで我が皇室に帰服してゐたので、皇室と諸氏族との間には親和な関係が成り立つやうになつた。だから皇室も威力を以て彼らを抑圧せられることが少なかつたのである。

つまり、国民一人ひとりの在り様が平和的であったからこそ、その統一も平和的であったといえるわけですね。そして、そういう国民の気質は、恵み豊かな自然に育まれたものでありましょう。

>  あまりに程度の違つた異国の文化に卒然と接したのであるから、何よりも先にそれを学習し模倣しなければならなかつた。模倣に巧である。自己の生活から自己の文化を創造するよりは自己を捨てて異国文化の形式に順応しようとする、邦人の一習性は既にこゝに萌してゐる。其の上、模倣と学習とは主として智力の働きであるから、一種の知識主義といふような傾向が養はれ、知識を偏重して自己の純真な情生活を軽んずるやうな態度が生ずる。真の自己を忘れて異国人から得た知識に順応するため、知らず識らず虚偽の生活をするやうになる傾向がある。さうして、これがおのづから、我執の少ない意欲の弱い固有の民族性にも適合する。

今日見られる知識偏重主義は、ずっと以前にそのルーツを辿ることができるわけですね。
納得です。

>  従つて異国思想を学ぶことは実生活から遊離した一つの知識的遊戯になつてしまふ。我が国に入つて来た仏教や儒学には大体に於いてかういふ傾向を免れなかつたのである。
>  それからまた、外から入つてくるものを学ぶ習慣が自然に新しいものを好む性情を我が国民に養はせた。自分のものより善いものが外にあれば直ちにそれを学ぶ。旧くからのものより、新しいものが目につけば忽ちそれに趨くのもこれと同じ心理である。我が国の文化の発達して来たのは一つは之がためであつて、固定しないでよく新しいものを享受したからである。が、其の半面には落ち着きのない、変り易い、しつかりしないといふ、欠点が伴ふ。何事に対しても長い年月を費やして一心不乱に努力するよりも、手つ取り早く片付けてしまはうといふ性質もまたこゝから生ずる。さうしてこれもまた、軽快な、淡泊な、浮つき易い固有の国民性と調和してゐる。

鋭い指摘ですね。
新しいものにすぐかぶれ、軽佻浮薄な流行に流されやすいわが国の国民性のルーツを垣間見る心地です。

>  それのみで無い。異国から優秀な文化が常に入つてくるために、文化の点に於いて国民の誇りが無く、従つて国民的自負心が発達しない。もつとも其の代り民族的偏執の気風も養はれないので、我が国に来る異国人は古来何時でも尊敬せられてゐる。支那人・欧州人のやうに異民族を軽侮する悪風の無いのは甚だ結構であるが、個人に自尊心の無いと同様、国民に自尊心の無いのは、国民としての重大な一素質を欠いてゐるのである。

異民族を侮蔑しないという性質は、わが国に誇れるものが乏しいために自尊心の発達がなかったからだという分析のようですが、本当は他者を尊重するという性質に由来するのではないでしょうか。
“プライドが高い”というのは、わが国においては比較的好意的に用いられることの少ない人物評で、“でる杭は打たれる”のように、スタンドプレーを嫌う、即ち和を尊ぶ平和的な国民性の賜物として、その性質があるように思えます。

>  宗教に関して、幼稚なアニミズムのところへ突然支那の思想が入り、また仏教が入つた。外来の思想の方が遙かに程度の高いものである。たゞ異国の宗教はどうしても国民生活とはしつくり合はない。それを知識として受け入れることは出来るが、実際生活には容易に融和しない。例へば支那の哲学思想に刺戟せられて天御中主神が現れても、それが宗教的信仰となつて民衆の間に崇拝せられるやうにはならぬ。仏教の厭世思想は国民の楽観主義とはあまりに距離が遠くて容易に手がつかぬ。そこで実際の信仰としては、固有の宗教が幼稚な状態のまゝで後まで遺る。さうして異国の宗教はそれに変わつた衣装を着せるだけに止まるか、又は幼稚な状態に適合する方面だけが信仰として行はれ、支那の宗教思想は怪しげな陰陽道になり、仏教は単純な祈祷教となつてしまつた。さうして其の仏教は何時まで経つても同じ祈祷教であつて、国民の宗教思想がそれがために進歩することは少なかつたのである。万事が此の風であつて、政治でも風俗でも皆さういふ傾向がある。

この分析はその通りだと納得させられますね。
しかし、アニミズムが幼稚であるか否かは主観的な問題ではないかと。
それは幼稚というのではなく、原始的であると同時に本質的なのだと小生は思います。
わが国の場合、葛藤の乏しい国民性ゆえ、あまり複雑難解な理屈を要さずとも、人々は楽々と生きることができたのかも知れません。
もとより、哲学や信仰は葛藤なくしては発達しえません。 なぜなら、それらは葛藤を克服するためにあるからです。
むしろ難解な理屈を必要としなかったという事実から、葛藤から縁遠く、楽天的で平和的であった祖先の在り様をうかがい知ることができるように思いますね。

>  知識についても同じような現象がある。全体に知識の幼稚なところへ急に支那の学問や仏教が入つて来たから、すべてがそれに圧迫せられて、自分自身で知識を開いてゆくことが出来ない、自分自身の眼孔で宇宙万有を視、其の不可思議な現象に驚歎し、又それに疑惑を抱いて事理を考察しようとするでもなく、支那や印度の独断説に接したので、頭からそれを信じてしまふ外は無かつたのである。支那の学問も仏教の経論も、大部分は論理上の遊戯といつてもいいやうな、煩瑣な、力の無い、さうして日常生活に交渉の浅いものであつた。知識を得るに全力を費やしたのであるから、自分自身なり事物そのものなりを対象として深切に観察し研究しようといふ欲望は養はれず、真の智力も学問も発達しなかつたのである。

たとえ知識は幼若であったにせよ、知恵がなければそれらを活用するには至らないものです。一般庶民の在り様がどうであれ、それらの知識を活用し得たという事実を以って考えれば、わが国はそれらの文明なり文化なりを咀嚼してのける十分なポテンシャルを有していたものと考えられます。

>  しかしながら、幸ひに我が国は大陸的勢力の影響を直接に蒙らない位置にある島国であるから、政治的独立をば曾て傷つけなかつた。こゝに国民の最大の誇りがある。これらの事情から、我々の民族は韓半島の住民などとは違つて、自然に国民としての独立的精神を養ひ、長い間に漸次一種の国民文化を形成することが出来たのである。何時でも輸入時代・模倣時代が前に来て、その後の長い間に徐々に国民化が行はれる。これが古今を通じて我が国民文化の発達する形式である。

> 民族生活の根柢がしつかりしてゐて、其の民族が自己の生活を向上させ拡大させるだけの活気と力とを有つてゐ、又環境がそれに適当してゐるならば、特色ある国民文化が必ず其の間から発展して来る。さうして実際の民族生活に適切でない異民族の文化は其の民族を根本から動かすことができないのである。

優れた洞察ですね。
今後の展開に期待しています。

http://

 
 

ありがとうございます。

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月10日(火)09時45分27秒
返信・引用
  ☆ 水谷真逸 さん


 はじめまして、おはようございます。

 過分なご感想を賜り、感謝申し上げます。
願わくば、思い描いておられる『教育論』をこの場で展開してくだされば幸いに存じます。

ありがとうございました。




 

感動しました

 投稿者:水谷真逸メール  投稿日:2012年 1月 9日(月)22時09分20秒
返信・引用
  海軍先生のお話感動しました。写真を見ると先生はお若いようですが、さすがに鍛え方が違うので児童を引っ張るところと突き放すところと、緩急の付け方が参考になります。

ある尊敬する心理学の先生が「範は陸幼にあり」という本を出されています。たった半年でしたが終戦までの半年間に受けた陸軍幼年学校で20代の先生から教わったことが、その後の長い人生の指針になっていると仰っておられました。クロさんの小学校のお話も同じように感じました。

現在の教育界はさまざまな問題を抱えていますが、解決策はホント足下にあるように感じました。感動をありがとうございました^^
 

日本人の国民性

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月 9日(月)21時45分33秒
返信・引用
   掲題を進めるにあたり、津田左右吉の大著『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(大正五年出版)を読み始めた。
読むにつれ、信じきっていた《日本人像》が悉く覆される思いがしている。
そのくせ、妙に納得させられるから不思議な書物である。

 少々長くなるが、先ずは序説にあたる「上代国民生活の瞥見」から抜粋転載してみよう。

 楽観的で快活な気分が養はれた代りに、安易な生活をする者の常として、得難いものを得ようとする希求の念が弱く、従つて強い意志が無く、奮勉努力の精神、冒険的の気象などは養はれなかった。満足はしつゝも人生其のものに対して深い執着が無く、飽くまでも人生の歓楽を領略しようとする情熱が乏しい。我を忘れて踊り狂ふ調子も無い。すべてが軽快で、うはすべりがしてゐて、低調で、微温的である。争闘と苦痛と不安との間から生まれる反省沈思の念はいふまでもなく生じない。これが我が上代人の有つていた楽観思想の半面である。

 かういふ民族が或る時期に於いて我が皇室の下に統一せられたのである。地方的小君主は概して甚だしき抵抗なしに服従し、其の大部分は旧のまゝに豪族として配下の土地人民を所有することになつたらしい。勿論、武力も用ゐられたではあらうし、後々までも、かの出雲建や熊襲建の伝説によつて知られる如く、多少の反抗者は出たであらうが、大体からいふと、一旦統一せられた後は、多くの豪族は喜んで我が皇室に帰服してゐたので、皇室と諸氏族との間には親和な関係が成り立つやうになつた。だから皇室も威力を以て彼らを抑圧せられることが少なかつたのである。

 皇室の本源を説くために作られた神代史が、天を以て帝権の象徴とし地を以て民衆に擬し、天子を以て高い所から民衆を見下ろすものとする支那思想とは反対に、皇室があらゆる氏族の宗家であつて、それと祖先を同じくし血統を同じくせられ、国民といふ一大家族の内部に在つて其の核心となつてゐらせられるとして、皇室の威厳を力強く示すよりは親愛の情を主として説いてあるのも、やはりかういふ実際の状態から生じたことである。

 一般国民についていふと国家の統一も其の実際生活にはさして大きい変動を与へなかつたらしい。国民自身が国民として統一せられてゐることを自覚してゐなかつたからである。韓地の経略も、国民生活とは直接の関係のないものであつた。そこが植民地となつたのではなく、経済的関係すらもあまり生じなかつたらしい。そこに往復して韓人と接触する者は国民の多数では無くて、少数の官吏と軍人とのみであつた。其の兵士も戦に臨んでこそ敵愾心は起れ、又其の敵愾心が異民族といふ点に於いて多少強められもすれ、それは主として敵味方の感情である。其の戦が自分達の生存の必要から起つたもので無い限り、それによつて強い国民的精神が湧いて起ることはないのである。

 しかし韓地経略の結果として最も大切なのは、それによつて支那の文物が輸入せられたことである。海の外にある金銀財貨の国は羨望の的となつたらしく、古伝説に韓地を指すとき必ず宝の国といつてゐるのでもそれが知られる。さすれば、邦人が其の財宝を手に入れ、韓地または本国から支那の文化を伝へようと熱望するやうになつたのは当然のことであつて、我が国の文化の発達すべき気運が始めて開けたのである。

 あまりに程度の違つた異国の文化に卒然と接したのであるから、何よりも先にそれを学習し模倣しなければならなかつた。模倣に巧である。自己の生活から自己の文化を創造するよりは自己を捨てて異国文化の形式に順応しようとする、邦人の一習性は既にこゝに萌してゐる。其の上、模倣と学習とは主として智力の働きであるから、一種の知識主義といふような傾向が養はれ、知識を偏重して自己の純真な情生活を軽んずるやうな態度が生ずる。真の自己を忘れて異国人から得た知識に順応するため、知らず識らず虚偽の生活をするやうになる傾向がある。さうして、これがおのづから、我執の少ない意欲の弱い固有の民族性にも適合する。

 また思想の上についていふと、我が国の地理的位置と社会的事情から、異国人の実生活そのものには殆ど接触しないで、たゞそれから発生し、其の上に打ち建てられた思想のみを単に思想として享け入れるのであるから、社会組織も生活状態もまるで異なつてゐる我が国民に於いては、日常の実生活と此の異国思想とは甚だ調和し難いものである。従つて異国思想を学ぶことは実生活から遊離した一つの知識的遊戯になつてしまふ。我が国に入つて来た仏教や儒学には大体に於いてかういふ傾向を免れなかつたのである。

 それからまた、外から入つてくるものを学ぶ習慣が自然に新しいものを好む性情を我が国民に養はせた。自分のものより善いものが外にあれば直ちにそれを学ぶ。旧くからのものより、新しいものが目につけば忽ちそれに趨くのもこれと同じ心理である。我が国の文化の発達して来たのは一つは之がためであつて、固定しないでよく新しいものを享受したからである。が、其の半面には落ち着きのない、変り易い、しつかりしないといふ、欠点が伴ふ。何事に対しても長い年月を費やして一心不乱に努力するよりも、手つ取り早く片付けてしまはうといふ性質もまたこゝから生ずる。さうしてこれもまた、軽快な、淡泊な、浮つき易い固有の国民性と調和してゐる。

 それのみで無い。異国から優秀な文化が常に入つてくるために、文化の点に於いて国民の誇りが無く、従つて国民的自負心が発達しない。もつとも其の代り民族的偏執の気風も養はれないので、我が国に来る異国人は古来何時でも尊敬せられてゐる。支那人・欧州人のやうに異民族を軽侮する悪風の無いのは甚だ結構であるが、個人に自尊心の無いと同様、国民に自尊心の無いのは、国民としての重大な一素質を欠いてゐるのである。

 これらはすべて後世まで関係のあることであるが、何れも昔から異国の文化を学ばねばならぬ地位にあつた我が国民には、免れ難い自然の傾向である。しかし更に考へると、早くから優秀な異国の文化が入つて来たために、我が民族固有のものは幼稚な程度のまゝに発達が止まつて、それなりに固定してしまつた。支那化せられた貴族文化と民衆の生活との間には一大溝渠ができてゐるため、民俗が精錬せられて品位ある文化に進むことが出来なかつたのである。けれども異国のものは異国のものだから、貴族の間に於いてすら知識として了解せられるのみで、最初から実際の情生活には融合せられない。しかし人間は知識のみで生きてゐられないから、それがために知識と情生活との分裂が生じ、健全な文化が其の間から養成せられ難いといふ有様になつた。

 宗教に関して、幼稚なアニミズムのところへ突然支那の思想が入り、また仏教が入つた。外来の思想の方が遙かに程度の高いものである。たゞ異国の宗教はどうしても国民生活とはしつくり合はない。それを知識として受け入れることは出来るが、実際生活には容易に融和しない。例へば支那の哲学思想に刺戟せられて天御中主神が現れても、それが宗教的信仰となつて民衆の間に崇拝せられるやうにはならぬ。仏教の厭世思想は国民の楽観主義とはあまりに距離が遠くて容易に手がつかぬ。そこで実際の信仰としては、固有の宗教が幼稚な状態のまゝで後まで遺る。さうして異国の宗教はそれに変わつた衣装を着せるだけに止まるか、又は幼稚な状態に適合する方面だけが信仰として行はれ、支那の宗教思想は怪しげな陰陽道になり、仏教は単純な祈祷教となつてしまつた。さうして其の仏教は何時まで経つても同じ祈祷教であつて、国民の宗教思想がそれがために進歩することは少なかつたのである。万事が此の風であつて、政治でも風俗でも皆さういふ傾向がある。

 知識についても同じような現象がある。全体に知識の幼稚なところへ急に支那の学問や仏教が入つて来たから、すべてがそれに圧迫せられて、自分自身で知識を開いてゆくことが出来ない、自分自身の眼孔で宇宙万有を視、其の不可思議な現象に驚歎し、又それに疑惑を抱いて事理を考察しようとするでもなく、支那や印度の独断説に接したので、頭からそれを信じてしまふ外は無かつたのである。支那の学問も仏教の経論も、大部分は論理上の遊戯といつてもいいやうな、煩瑣な、力の無い、さうして日常生活に交渉の浅いものであつた。知識を得るに全力を費やしたのであるから、自分自身なり事物そのものなりを対象として深切に観察し研究しようといふ欲望は養はれず、真の智力も学問も発達しなかつたのである。

 しかしながら、幸ひに我が国は大陸的勢力の影響を直接に蒙らない位置にある島国であるから、政治的独立をば曾て傷つけなかつた。こゝに国民の最大の誇りがある。これらの事情から、我々の民族は韓半島の住民などとは違つて、自然に国民としての独立的精神を養ひ、長い間に漸次一種の国民文化を形成することが出来たのである。何時でも輸入時代・模倣時代が前に来て、その後の長い間に徐々に国民化が行はれる。これが古今を通じて我が国民文化の発達する形式である。もつとも模倣は小児の本能であるやうに、幼稚な民族にとつては一つの本能といつてもよいくらゐで、この能力があるために他の民族の優秀な文化を採用することができ、さうして其の民族の文化を発達させることができるのである。民族生活の根柢がしつかりしてゐて、其の民族が自己の生活を向上させ拡大させるだけの活気と力とを有つてゐ、又環境がそれに適当してゐるならば、特色ある国民文化が必ず其の間から発展して来る。さうして実際の民族生活に適切でない異民族の文化は其の民族を根本から動かすことができないのである。

 なお、抜粋転載の都合上、前後の繋がりを考慮したため、必ずしも原文のままではありません。


 

Re: <冊封体制>

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月 9日(月)18時20分55秒
返信・引用
  > No.326[元記事へ]

☆ SHO 様

 こんばんは。

小生のコトバが少々足りなかったようです。
クロ様の上記のお返事こそ、まさに小生の云う「学者は、学者であるうちは聖者にはなれない」という実例です。
学問を極めたところで、決して聖者にはなれないという意味です。

 諒解致しました。

 ただいま<日本人の国民性>の取っ掛かりを執筆中です。

 まあ大半が津田師の受け売りになりそうですが、黄文雄説とは対極に位置するような日本人観ですから、怒号が渦巻いて一波乱あるかもしれません。

 乞うご期待!



 

Re: <冊封体制>

 投稿者:SHO  投稿日:2012年 1月 9日(月)18時01分21秒
返信・引用 編集済
  クロ様

こんばんは。

>  インド思想からは離れ、且つお言葉を返すようで恐縮ですが、李氏朝鮮時代の韓流史劇を観ていると、崇高なる理想を抱く儒学者が、それを実現すべく国王に接近して政治の実権を握り、その実、亡国の道を辿ったようですよ。

小生のコトバが少々足りなかったようです。
クロ様の上記のお返事こそ、まさに小生の云う「学者は、学者であるうちは聖者にはなれない」という実例です。
学問を極めたところで、決して聖者にはなれないという意味です。
政治に介入しようなどという発想はいかにも世俗的であり、究極の自己実現を目的とする求道者の姿からは逸脱しています。
何かを敵にみたててこれを排撃するという態度も、自分以外の何かを力づくで変えようとする姿勢も、求道者のあるべき姿にはそぐわないというわけです。
知識だけがあっても、知恵がなければ賢者足りえず、賢者足りえても、徳と仁にみる神の性質との合一に達さぬ限り、聖者足りえない。

宗教の教えは、単なる知識としてそれらを弁別しても意味がなく、自己実現、即ち自己の変容に用立ててはじめて意味を持つといえます。
そして、そのようなスタンスで宗教を俯瞰する限り、そこに透徹した真理を見出せるはずだと小生は信じているのです。
かの地を支援する人々の在り様は、鏡に映った己自身に向かって槍を構えているようなものではないでしょうか。
北朝鮮を批判しているようでいて、拉致被害者奪還には手段を選んでいられないという姿勢は、まさに北朝鮮のイデオロギーそのものです。
中国から核の矛先を向けられれば、同じように核の矛先を向けねばと構える姿勢もまさにそう。
人が自らの敵だと思い込んでいるものとは、往々にして、もっとも醜い己自身です。
そのことに気づいた求道者は、自らの外側に向かって、むやみに正義を叫ぶことがなくなってしまう。
自分以外の何かを批判したり、あるいはそれを変えようとすることに忙しいうちは、学者の域をでるものではないといえるのです。

 

<冊封体制>

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月 9日(月)13時05分5秒
返信・引用
  > No.324[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。

学者は、学者であることを超えない限り、聖者に達することはできないと小生は思う次第です。

 インド思想からは離れ、且つお言葉を返すようで恐縮ですが、李氏朝鮮時代の韓流史劇を観ていると、崇高なる理想を抱く儒学者が、それを実現すべく国王に接近して政治の実権を握り、その実、亡国の道を辿ったようですよ。
日本でも御用学者はいたものの、あくまで学者の域を出ず、幾ら重用されようが直接政治を任されることはなかった。

【御用学者】
 幕府に雇われて歴史の編纂など学術研究を行っていた者のこと。
 転じて現在では「権力者におもねる学者」といった意味で使われる。

 では、李氏朝鮮時代の儒学者たちが朝廷に入りこんで政治の表舞台に立ち、果たして聖人君子と成り得たか。

 学者としての理想はどこへやら、彼我の別なく私利私欲にまみれ、王命を楯にした血で血を洗う抗争に明け暮れたにすぎない。
朝鮮史を観ても、信頼型社会が形成されてきた日本と違い、いつの世も虚飾に満ちているため、聖人君子ではとても生きていけない社会構造になっているというわけ。

 ドラマだから必ずしも史実に添ってないのかもしれないが、どれもこれも同じような展開ということは、これが現代彼国の自国史観と言えなくもない。
そして、“排仏崇儒(仏教を排し儒教を尊ぶ)”とか“慕華思想(中国を宗主国と仰ぐ)”なる語が平然と飛び交うありさま。
属国根性丸出しで、独立自尊の気高い精神など、何処を捜してもありはしない。

 面白いことに、中国・韓国・北朝鮮を毛嫌いしてこれを排撃せんとする某板論者に共通するのが“親米”であること。
おそらく彼らは気づいてないだろうが、アメリカを宗主国と仰ぐ属国根性に精神を汚染されているのである。


 

Re: <天竺(印度)の思想>

 投稿者:SHO  投稿日:2012年 1月 9日(月)00時27分4秒
返信・引用
  クロ様

こんばんは。

> 劇中、ガルーダという神鳥が出て来ますが、インドネシアの他、タイの国章にもなっているのですね。

ガルーダ・・・その昔、子供のころに観たロボット・アニメ「コンバトラーV」の敵将の名がそれでした。
そういえば、ガルーダは猛禽の姿に変わることがあったような。

> “共存共栄”という意味では賛成しますが、一色に塗りつぶそうとの我欲に満ちたアメリカ発グローバリズム(地球共同体主義)なら反対です。

同感です。
米国発のグローバリズムは、力に物言わせる征服そのもの。
日本の目指すべきそれとは全く趣を異にする。

> インドネシア・バリ島に自らの土産物店を持ち、タイへも幾度かご一緒しましたが、困ったことに精力絶倫で頗る女好き。

そういう方と一緒に飲むと、面白いお話が沢山聞けそうですね(笑)。
もともと宗教というのは、信仰が伝統的な様式を備えたものといえます。そして形を備えた瞬間から、そこには垣根ができてしまい、個別性が生じます。実際、キリスト教といえども、カトリックとプロテスタントに分かれている。ところが、個々の教えの精髄をつきつめていくと、本当は根が皆同じです。

真理と呼ばれるものは、ただ一つ。
宗教の違いとは、同じ頂に到達する登山道の入り口の違いでしかないというのが、小生の認識です。
頂上に近づくほどに、どこから登りはじめようとも、眺める景色は皆等しくなってくるもの。
確かに、各々の教えの相違点を追究するのは、弁別を目的とする学問的な営みには役立つでしょうが、求道者の営みにはあまり役立ちません。
学者は、学者であることを超えない限り、聖者に達することはできないと小生は思う次第です。
 

Re: <天竺(印度)の思想>

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月 8日(日)11時02分49秒
返信・引用
  > No.322[元記事へ]

☆ SHO 様


 おはようございます。

どうやら日本でも、仏教伝来以前からあった思想のようです。
実は、原始キリスト教にも輪廻思想はあったようですが、コンスタンティノープルの公会議あたりで異端のレッテルを貼られてしまい、語られることがなくなったのだとか。

 なかなか興味深いお話ですね。

 インドネシアはイスラム教国ですが、かつてはヒンドゥ教(ジャワ島最東部とバリ島は今なお)、バラモン教、仏教等が栄えたりして、文化的には国号が示すとおりのインド文化圏です。
 『カルティニ』という19世紀の女性教育(解放)運動家を描いた映画があり、このなかでも輪廻思想と思われる場面が出て来ます。
彼女は25歳で夭折していますが、今や国民的英雄であり、4月21日の誕生日がカルティニ記念日(母の日)で国民の休日、一万ルピア札の肖像にもなっています。

 ジョクジャカルタ東のプランバナンはヒンドゥ遺跡ですし、西のボロブドゥールは仏教遺跡。
夜には、古代インド叙事詩『ラーマーヤナ』の上演もありました。
劇中、ガルーダという神鳥が出て来ますが、インドネシアの他、タイの国章にもなっているのですね。
知りませんでした。
 ガルーダは、その昔、祇園精舎と誤認していたカンボジアのアンコールワット遺跡でもみられます。
このように、インド文化は東南アジア一帯に広く浸透しているようです。

 日本で神鳥といえば“八咫烏”かな?
サッカー代表チーム・ユニフォームのエンブレムがそうですし・・・。
中国神話では龍や蛇は出てくるが、鳥を神聖視した物語はないみたい。

 まあ、こういった類(神話)の話を一つの方向に持って行こうとすると間違いの元かもしれませんね。
日本で神仏習合が行われたように、各国独自の土着信仰と結びついた可能性もある。

我々は同じ地球という惑星に住んでいるわけですから、そのマンションと同じように、皆で仲良く暮らせる共同体をこしらえることだって、できないはずはない。
それを非現実的だと諦めてしまう前に、それを具現化するためのタネを蒔くことこそ肝要だと小生は思っています。

 またぞろ<地球市民>ですか?
“共存共栄”という意味では賛成しますが、一色に塗りつぶそうとの我欲に満ちたアメリカ発グローバリズム(地球共同体主義)なら反対です。
SHOさんがおっしゃるのが前者であることは、もちろん承知のうえで、あえて付言させていただきました。

そしてこの神の意識に到達するための方法が古いインドの教えには体系的に示されており、それらはヨーガと呼ばれています。
人間の神経系統は、他の生き物に比べてもっとも神の意識を具現化しやすいのだとか。
人間として生きる究極の目的は解脱にあることを、ヨーガは示しています。

 かつての労組仲間であり会社での大先輩にあたる御方(現在80歳超)が、定年後ヨーガに凝って数冊の出版までなさっています。
病弱だった現役時代の経験を元に、つひに解脱(?)なされたのでしょうか。
インドネシア・バリ島に自らの土産物店を持ち、タイへも幾度かご一緒しましたが、困ったことに精力絶倫で頗る女好き。

 だから言うわけでもありませんが、禁欲的な西洋に較べて、日本やインド、東南アジア一帯では、性に対する考え方がもっとおおらかで開放的ですよね。

 神の子イエス・キリストを処女マリアから生まれたとする聖書を信ずる西洋人にしてみれば、性行為自体が想像するだに恐ろしい罪なのでしょう。
しかし、我々には、子孫繁栄の源である行為を罪とする意識はない。
 尤も、女性側からすれば、少し違う意識があるのかもしれませんが。

 

Re: <天竺(印度)の思想>

 投稿者:SHO  投稿日:2012年 1月 7日(土)21時44分22秒
返信・引用 編集済
  クロ様

こんばんは。

>  この「輪廻転生」という考え方には、相当な関心があります。
> 仏教思想かと思ったら、インドには仏教以前からあった考えらしいですね。

どうやら日本でも、仏教伝来以前からあった思想のようです。
実は、原始キリスト教にも輪廻思想はあったようですが、コンスタンティノープルの公会議あたりで異端のレッテルを貼られてしまい、語られることがなくなったのだとか。
そもそも、聖書にでてくる有名な台詞、「蒔いた種は刈り取られねばならない」なんていうのは、因果応報そのものなんですよね。
イエスの青年時代にはインドで修行していたという記録がチベットの僧院に残っていたという話もあるくらいですから、イエスの教えもまた、因果応報と輪廻思想に基づいていたに違いないと小生は確信しています。

小生の場合、日常において因果応報を実感する場面は多く、輪廻転生はその延長で考えれば当然の事実だと信じています。
輪廻思想との出会いは小学6年生の頃、担任の先生がホームルームの時間にしてくださったお話からでした。
曰く、日は沈み、また昇る。自然は循環しており、人もまた生まれ変わるという思想がインドでは当たり前なのだと。
当時、命は大切だとか平等だとかいわれる一方で、自分自身の食卓に盛られる沢山の命を目の前にして、表現しようのない憤りを覚えていたため、この考え方に救われた心地がしたものでした。
個々の魂も、意識の進化とともに、乗り移る命をたがえて人間の意識にまで到達したのだと、感覚的に悟った瞬間でありました。

>  つまり言いたいのは、人種も育った環境もまったく違うヨソ者同士なのに、同じマンションに住んでいるという地縁(?)だけで、利益集団ではないコミュニティとしての共同体が形成され得るということです。

我々は同じ地球という惑星に住んでいるわけですから、そのマンションと同じように、皆で仲良く暮らせる共同体をこしらえることだって、できないはずはない。
それを非現実的だと諦めてしまう前に、それを具現化するためのタネを蒔くことこそ肝要だと小生は思っています。

>  「輪廻転生」に関して言えば、「解脱」とは束縛から解放されて自由の境地に立つこととされますが、元来は転生から抜け出すことらしいですね。
> つまり、転生(生まれ変わる)しなくなるのだとか。

年始、親友との会話で、あとどれくらい生まれ変われば解脱に達することができそうかという話題になりました。現状を鑑みると、今生ではまず無理。あと、二、三回は最低必要で、十回くらいでいければラッキーという話で落ち着きました。とはいえ、十回といえども、かなりおこがましい予見には違いありません(笑)。
解脱は、神の意識との合一によって達成されるといいます。
そしてこの神の意識に到達するための方法が古いインドの教えには体系的に示されており、それらはヨーガと呼ばれています。
人間の神経系統は、他の生き物に比べてもっとも神の意識を具現化しやすいのだとか。
人間として生きる究極の目的は解脱にあることを、ヨーガは示しています。

> 戦後生まれの我々は、科学的合理主義を妄信するあまり、観念的領域の話そのものを語れなくなっているのではないでしょうか。

おっしゃる通りですね。
 

Re: <天竺(印度)の思想>

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月 7日(土)16時00分11秒
返信・引用
  > No.320[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。

 この「輪廻転生」という考え方には、相当な関心があります。
仏教思想かと思ったら、インドには仏教以前からあった考えらしいですね。

 前稿のタイ映画でも、輪廻思想からきたと思われる若い主役男女の台詞が、後半になるにつれてよく出て来ます。
タイの場合、日本と違ってバラモン教やヒンドゥ教のほか、土着信仰もあって宗教的にはかなり複雑です。
現代ともなれば、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教なども加わって多様化するばかり。

 チェンマイの常宿マンション近くはイスラム教徒の多い地域で、実際の話、隣の小中学校はイスラム系だとか。
ところが、すぐ傍には中国廟があり、仏閣のほかにも回教墓地、ユダヤ系レストラン、カトリック教会も並んでいます。
無いのは日本の神社ぐらい。
しかし、日本人経営の和食堂へ行けば、竈神の御札が貼ってあったりして。

 それで以て、お互いが啀み合うわけでもなく、普段は仲良く共生しているわけですね。
同マンションを例にとっても、地元タイ人はもちろん、我ら日本人のほか、韓国人、中国人、西洋人らが混在して住んでいるわけですが、建物内で顔を合わせれば、見知らぬ人であっても各母国語で挨拶ぐらいは交わします。

 つまり言いたいのは、人種も育った環境もまったく違うヨソ者同士なのに、同じマンションに住んでいるという地縁(?)だけで、利益集団ではないコミュニティとしての共同体が形成され得るということです。

 共同体(ゲマインシャフト)こそ人間関係の原点と考えているので、ついそちらへ逸れて申しわけありません。

 インドに戻ると、チェンマイの高台に在るドイ・ステープ寺院には、釈迦の一生を描いた壁画があって、その説明文にタイ語と併記された言語がチンプンカンプン。
ガイド氏曰く、パーリ語(≒梵語)なのだそう。
意味はわからないながら、ちゃんと読めるらしい。
日本の仏教経典は中国経由なので漢字なるも、墓地へ行けば墓標の裏側に梵語を見ることが可能。
縦書なのが如何にも日本的で、本来は横書のはず。
そんなことはどうでもいいが、インド研究家か言語学者でもない限り、一般の日本人は梵語が読めない。

 「輪廻転生」に関して言えば、「解脱」とは束縛から解放されて自由の境地に立つこととされますが、元来は転生から抜け出すことらしいですね。
つまり、転生(生まれ変わる)しなくなるのだとか。

 自分では根が優しいと思っていても、子供時分には蛙の股裂きとか蜥蜴の火炙りとか結構残虐なことをしていたらしい。
「あんた、こんど蛙や蜥蜴に生まれ変わったらどうするんね」と母親に脅され、凍りついた憶えがあります。
この頃は、迷信なのか確認しようもないし、考える能力も乏しかったので、親の言うことを鵜呑みにして輪廻を信じていたんでしょうね。
当時(昭和30年代前半まで)は親だけでなく、周囲の大人たちから、よく輪廻転生にまつわる話を聴かされました。

 今はどうなんでしょう。
戦後生まれの我々は、科学的合理主義を妄信するあまり、観念的領域の話そのものを語れなくなっているのではないでしょうか。


 

Re: <天竺(印度)の思想>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2012年 1月 7日(土)08時57分59秒
返信・引用 編集済
  クロ様

おはようございます。

>  アタキゃ、もともと“ブラフマチャーリヤ”なる語は知らんやったけん、なしてその誓いとやらがたてられますとかぃね。

今生(今回の生)になって誓いを忘れてしまっても尚、効力の持続するというブラフマチャーリヤの誓い・・・やはり恐るべし。過去世の誓いなんて誰も覚えてはいないに違いありませんから。
勿論、小生には絶対そのような誓いを立てることはできません(笑)。

ところで、輪廻転生に関してよくある疑問として、生まれ変わりがあるならば、現在、あるいは今生とは何のためにあるのかというものがあります。
要するに、輪廻思想は今生の価値を軽んじてしまうことになりはしないかというわけです。

これは、輪廻思想を因果応報と切り離して考えた場合に起こる誤解ということができます。
もともと、輪廻思想とは、因果応報を抜きにしては語ることのできない思想であり、因果応報もまた、輪廻転生と切り離しては語ることのできない思想です。

当たり前の話ですが、現在という時間は過去にとっては未来であり、未来にとっては過去であるように、過去や未来と独立した存在ではありません。
つまり、現在という時制に与えられた諸条件は、因果応報の法則のもと、前世と今生の過去における選択によって自らが決定したものであるといえます。そして、その条件下で行われる現在の選択は、過去の選択によってある程度限定された未来のいくらかを引き寄せることになります。

即ち“運命”とは、現在時制では未だ成就していない過去の選択の結果であると同時に、現在時制で行われる選択の結果でもあるというわけです。
未来の可能性は過去によって限定されてもいるが、しかし同時に無限でもある。
そう考えると、現在とは即ち貴重なる選択の機会であり、その一瞬一瞬に莫大な価値があるといえるわけです。
ゆえに、輪廻思想は必ずしも現在や、あるいは今生を軽んじる思想には当たらないということができます。

たとえ当人が忘れてしまってはいても、過去に行われた選択は否応なく今ある人生とその未来を決定してしまいます。ハートを研ぎ澄まし、日常に起こる出来事を注意深く観察するならば、それらが過去に行われた己の選択の結果であるということを、あるいは実感できるのかも知れません。
 

Re: <天竺(印度)の思想>

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月 6日(金)13時35分11秒
返信・引用
  > No.318[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。

クロ様は他の人々に比べて自然と禁欲を選択しておられるがゆえ、自らは快楽主義者を名乗っていたいということになります。
つまり、概ね周囲の方々には“禁欲的”と映っているのではないかと(笑)。
そもそも快楽志向の人間は、快楽の追求が当たり前になっているので、自らが快楽志向であるとは自覚できないものです。
自らの快楽志向を自覚するためには、実は禁欲的でなければならない。
やはり、クロ様はかつて、ブラフマチャーリヤの誓いをお立てになったのではないかと拝察いたすわけです。

 む~ん、ますますわからんバイ。

 アタキゃ、もともと“ブラフマチャーリヤ”なる語は知らんやったけん、なしてその誓いとやらがたてられますとかぃね。

 要するに、本音と建前が空前絶後に乖離したジキル博士とハイド氏並みの超二重人格者とおっしゃりたいわけ?

 SHOさんは、ヒトが悪かバイ。

 まあ、こういう話題は、ヒマツブシには格好の材料ですけどね。


 

Re: <天竺(印度)の思想>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2012年 1月 6日(金)12時43分31秒
返信・引用
  > No.317[元記事へ]

クロ様

こんにちは。

>  何のことはない、根が快楽主義者の私奴には、最も縁遠い思想ではありませんか。
> この分じゃ、至福は到底得られませんかね。残念・無念。

果たしてクロ様が本当に快楽主義者であるか否かを探るには、ちょうどよい資料があります。

> 私の場合、順応(服従)型か反抗型かと問われれば、「我こそは順応型である。」と、明確にお答えしています。ところが、周囲の観方はおおかた正反対で、反抗型と映るらしい。

上記コメントから推察すると、クロ様は他の人々に比べて自然と禁欲を選択しておられるがゆえ、自らは快楽主義者を名乗っていたいということになります。
つまり、概ね周囲の方々には“禁欲的”と映っているのではないかと(笑)。
そもそも快楽志向の人間は、快楽の追求が当たり前になっているので、自らが快楽志向であるとは自覚できないものです。
自らの快楽志向を自覚するためには、実は禁欲的でなければならない。
やはり、クロ様はかつて、ブラフマチャーリヤの誓いをお立てになったのではないかと拝察いたすわけです。
重ね重ね、失礼いたしました。


 

<天竺(印度)の思想>

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月 6日(金)10時50分38秒
返信・引用
  ☆ SHO 様


 おはようございます。

恐るべしブラフマチャーリヤの誓い

 ぶらふまちゃーりや???????????????

 不勉強なもので、聞き覚えがありません。

 何だろうと思ってネット検索したら、ガンディー師が出て来ました。

ガンディーによれば、ブラフマーチャーリヤは「思想・言葉・行為の抑制」を意味する。
禁欲主義や苦行と密接な関連を持ったブラフマーチャーリヤ(心と行為の浄化、ブラフマンすなわち宇宙の最高原理の探求)は、ヒンドゥー教の苦行者の間で昔から行われていた。

 ぶらふまん???????????????

 “ブラフをかける男”のことかしらん。

ブラフマン 【(梵)Brahman】
 インドの正統バラモン教思想における最高の理法。
 宇宙の統一原理。万有の根本原理。梵(ぼん)。→アートマン

アートマン 【(梵)tman】
 《我(が)と訳す》インド哲学用語。もとは呼吸の意味。
 次いで自我・霊魂を意味するようになった。
 のちにウパニシャッド哲学では、宇宙原理ブラフマン(梵(ぼん))と同一視された。

 などなど調べるうちに《梵我一如》に行き当たりました。

 梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。不二一元論ともいう。

 梵とは神ではなく、あらゆるところに始めから存在する生命の源と考えられている。また人間が梵を吸収することにより生命力が増すという思想もある。

 仏教では、梵(ブラフマン)が人格をともなって梵天として登場するが、本来のインド思想にあっては、自然そのもの、あるいは遍在する原理、または真理を指していた。一方、我(アートマン)とは、身体の中にあって、他人と区別しうる不変の実体(魂のようなもの)として考えられ、「真我」と漢訳される。

 ヴェーダにおける究極の解脱とは、この個人の実体としての我が、宇宙に遍在する梵と同一であることを悟ることによって、自由になり、あらゆる苦しみから逃れることができるとする。

 この思想は、バラモン教、ヒンドゥー教に限らず汎インド的な性格をもち、仏教やジャイナ教における実践的性格に影響をあたえた。

 日本では稀ではあるが、「苦しみを乗り越えれば至高に達する」という意味の四字熟語として用いられることがある。

 何のことはない、根が快楽主義者の私奴には、最も縁遠い思想ではありませんか。
この分じゃ、至福は到底得られませんかね。残念・無念。

 ところで先月、タイみやげに買って帰ったDVDに、『サラシン橋心中(サパーン・ラック・サラシン)』(1987年制作)という映画があります。
1973年にプーケット島で実際に起きた事件を、悲恋劇に仕立てた映画です。
もう四半世紀近く前にNHKBSで放映された際(タイへ通い始める頃)、ビデオ録画していたのですが、“心中”が日本独特の事件ではないと知って意外に感じたものです。
そして、翻訳にもよるのでしょうが、“来世”“前世”といった輪廻思想に基づいた作りになっています。
監督が日本への映画留学経験者のせいもあって、きわめて“日本的”な作品です。

*ご参考*

拙ブログより(←クリックしてください)


 

Re: <“反抗”のメカニズム>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2012年 1月 6日(金)08時47分27秒
返信・引用 編集済
  > No.315[元記事へ]

クロ様

おはようございます。

>  勉強しようと思っているのに、勉強しろと言われたとき。

これは多分子供たち全員の実感でしょうね(笑)。

> 独り者に対する当てつけですか?

インドでは、悟りに至る道のりを短くするための方法として、“ブラフマチャーリヤの誓い”を立てるという修行があるのだそうです。
この誓いを立てると悟りは早まりますが、結婚とは縁がうすくなってしまうのだとか。
小生の知人の中で、やはり結婚に縁遠い方がおいででしたが、あるとき、インド占星術師に占ってもらったところ、その方は前世でこの誓いをお立てになった高潔な求道者だったということでした。
それにしても、生まれ変わってなお有効な誓いって・・・恐るべしブラフマチャーリヤの誓い。
ひょっとすると、クロ様も、その類でいらっしゃるのかも。
失礼いたしました。
 

<“反抗”のメカニズム>

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月 5日(木)16時20分9秒
返信・引用
  > No.310[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。

 SHOさんがおっしゃる

その“反抗”とは、実は環境の変化に“順応”しようとした結果であったのかも知れません。

を、私なりに少し発展させてみましょう。

 三島は“衝動”という語を用いていますが、これの国語的な意味は、

しょうどう 【 衝動 】
 1 外から強い力や刺激を受けて心を動かすこと。
 2 動作または行為を行おうとする抑えにくい内部的な欲求。
  目的が完遂することによって消滅する。

だそうです。

 《目的達成により消滅》ということまで思いが至りませんでした。
とすると、目的未遂に終われば欲求不満だけが残ってしまうということか。

 私の場合、順応(服従)型か反抗型かと問われれば、「我こそは順応型である。」と、明確にお答えしています。
ところが、周囲の観方はおおかた正反対で、反抗型と映るらしい。
そう言えば、思い当たるフシがなきにしもあらず。
子供の頃は親に逆らい、就学期は先生に逆らい、会社に入ってからは上司に逆らい・・・etc.

 おそらく、建前には「従順でありたい。」との思いがあるのでしょう。
しかし、実際は反抗の衝動(?)に駆られ、まったく逆の言動に出てしまう。
こういうことって、日常生活の中に時偶あるんじゃありません?

 よくよく考えてみると、親や先生・上司のその時の態度が気にくわなかった。
天の邪鬼な性格は自分でも百も承知ですが、素直に従いたいと思っているのに、高飛車に出られるとつい反抗したくなるのが人情というもの。

 勉強しようと思っているのに、勉強しろと言われたとき。
校則に従うべきと思っているのに、校則に従えと強制されたとき。
会社も一つの共同体と思っているのに、ビジネスライクな指示・命令を受けたとき。

 大げさに言えば、どうやら自己の思想・信条における岐路に立たされたとき、反抗の衝動が表面化するようですね。


 

Re: <服従の衝動>

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月 5日(木)11時10分21秒
返信・引用
  > No.313[元記事へ]

☆ SHO 様


 おはようございます。

青年の頃、服従の衝動を満たすことのなかった小生は、どうやら結婚することでこれを満たしているようです(笑)。

 独り者に対する当てつけですか?

 参ったなあ。(哀)

 ではまた、後ほど。

 

<服従の衝動>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2012年 1月 5日(木)08時43分25秒
返信・引用
  クロ様

おはようございます。
青年の頃、服従の衝動を満たすことのなかった小生は、どうやら結婚することでこれを満たしているようです(笑)。
 

Re: “反抗”は若者の特権ではない?

 投稿者:SHO  投稿日:2012年 1月 5日(木)01時01分42秒
返信・引用 編集済
  クロ様

こんばんは。

>  青年期は反抗の衝動と服従の衝動とを同じように持っている。

小生の場合、服従の衝動ってのは、なかったかも(笑)。
二十歳前後の頃、何事も思うようにはかどらない時期があって、その頃に成功哲学の類を読み漁った記憶がありますね。

>  わたしは安保闘争もその極端な電位差の一つのあらわれだと思うのである。

安保闘争や、その後の学生運動の実体が何であったかについては、当事者であるはずの親世代に尋ねてみても、要領を得ない返事しかかえってこないことが多いですね。
当人たちも運動の意味がよくわかっていなかった様子です。

> 安保闘争は実に政治的に複雑な事件で、あれに参加した青年たちは、何か自分の身を挺するものを捜して参加したにすぎず、かならずしもイデオロギーに支配されたり、あるいは自分で安保条約の条文を精密に研究して行動したわけではなかった。
> 彼らは相反する自分の中の衝動、反抗と死の衝動を同時に満たそうとしたのである。

これで納得。
今、日本の保守論壇で活躍する人のうち、核武装に異を唱える人なんてほとんどいませんね。
勿論、核の傘から脱しようなんていう人も(笑)。
でも、論理的につきつめれば、本来、保守派こそ、核武装に拒絶の意志を示さねばならないはずです。
ところが、かの板でも核武装に懐疑的な意見を述べる人は少数派でしたし、小生を納得せしめるだけの核武装すべき理屈も見当たりませんでした。
“核の脅威には核で対抗”というのでは、いかにも短絡的で創造性に欠けるといえるのに、著名な文人の意見というだけで無批判にこれを受け入れ、その意味について自前の意見を展開できる人が皆無という有様です。
だから、ほんの少し議論するだけで、すぐに追い詰められてボロがでる。
のみならず、論理的に反論できないから、すぐに感情的にもなってしまう。
結局、安保闘争と一緒で、自分がしゃっべっていることの意味を理解できていないのでしょう。
自らの論理的欠陥を“現実的”というコトバで言い訳してしまう態度は、いかにも残念でなりません。
福島の原発災害の前だと、地方の景気浮揚策に原発誘致を言い出す人々も多かったわけですが、この人たちも基本的にご同類ですね。
本当の意味でのリアリズムがまるでない。

> われわれは今日死ぬと思って仕事するときに、その仕事が急にいきいきとした光りを放ち出すのを認めざるをえない。

この一文に託された意味のわかる人なら、核武装や原発というものが、いかに醜悪なる執着心の産物であるかがわかるはずなのですが、専ら衝動を満たすことに忙しい方々にとっては、困難な課題であるのかも知れませんね。


 

“反抗”は若者の特権ではない?

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月 4日(水)23時00分25秒
返信・引用
  > No.310[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんばんは。

その“反抗”とは、実は環境の変化に“順応”しようとした結果であったのかも知れません。

 SHOさんらしい死角を抉り出すかのような観察眼ですね。
言われてみればなるほどですが、まったく思い至りませんでした。

 三島由紀夫は『葉隠入門』で、津田師の説く“順応型”と“反抗型”とは違う視点から書いています。(以下抜粋)

 青年期は反抗の衝動と服従の衝動とを同じように持っている。
これは自由への衝動と死への衝動といいかえてもよい。

 戦時中には、死への衝動は100パーセント解放されるが、反抗の衝動と自由の衝動と生の衝動は、完全に抑圧されている。
それとちょうど反対の現象が起きているのが戦後で、反抗の衝動と自由の衝動と生の衝動は、100パーセント満足されながら、服従の衝動と死の衝動は、何ら満たされることがない。

 わたしは安保闘争もその極端な電位差の一つのあらわれだと思うのである。
安保闘争は実に政治的に複雑な事件で、あれに参加した青年たちは、何か自分の身を挺するものを捜して参加したにすぎず、かならずしもイデオロギーに支配されたり、あるいは自分で安保条約の条文を精密に研究して行動したわけではなかった。
彼らは相反する自分の中の衝動、反抗と死の衝動を同時に満たそうとしたのである。

 しかし、安保騒動の挫折のあとにきたものはさらに悪かった。
自分が身を挺した政治的行動は、一種のフィクションであり、死は現実には来ず、そして政治的な結果は何ら満足すべきものではなく、あらゆる行動のエネルギーは、無効であったということが確認されたのである。
ふたたび、現代日本において青年たちは、「お前たちがそのために死ぬという目標はないのだぞ。」という宣告を受けたのだった。

 しかし、死だけは、「葉隠」の時代も現代も少しも変わりなく存在し、われわれを規制しているのである。
その観点に立ってみれば、「葉隠」の言っている死は、何も特別なものではない。
毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いわば同じことだと言うことを「葉隠」は主張している。
われわれは今日死ぬと思って仕事するときに、その仕事が急にいきいきとした光りを放ち出すのを認めざるをえない。

 引用のみで投稿文を埋める結果となり、すみません。

 三島はどうも難解で苦手なのですが、“反抗”と“順応(服従)”という相反する性質は、何人にも備わっているのであって、その顕れ方を戦時と平時に分けて説明したのが、三島のこの一文ではないでしょうか。

 “反抗”が太平の世に満たされるというのは意外でした。
しかし、なればこそ、アプレ(戦後派)が反抗型の特質を遺憾なく発揮する理由にも合点がいきます。
まあ、明治維新にしろ、二二六事件にしろ、“反抗”は《若者の特権》みたいなものでしょうが、近頃は還暦を過ぎた世代が中心の団体もあるようですね。

 

Re: <保守>

 投稿者:SHO  投稿日:2012年 1月 4日(水)08時24分35秒
返信・引用 編集済
  クロ様

おはようございます。

>  徳川三百年の太平を保ったのは、全く組織の力であってそれが明治維新となって新局面を展開したのは反抗型の人の力である。
> 社会の堅実なる秩序の為には順応型の人も必要であって、その進歩発展の為には物騒なる反抗型の人といえどもまた大いに大切なのであります。

興味深いですね。
進化論で有名なダーウィンがいうには、「生き残るのは強者でもなく、賢者でもなく、変化する(環境に順応する)者」なのだそうです。
わが国もまた、幕末といわれる頃、西洋列強の圧力にさらされて、変化を強いられた時代があったわけです。
そして、その混乱期に乗じて反抗型の人々の活躍があったといえるわけですが、しかし、その“反抗”とは、実は環境の変化に“順応”しようとした結果であったのかも知れません。
そう考えると、何が順応で何が反抗なのかも、よくわらなくなってまいりますね(笑)。

我々は維新後の世界に生きているわけですから、維新それ自体を肯定的にみてしまうのは当たり前なのかも知れませんが、それが本当に正しい選択であったのかどうかは、実はわからない。
江戸幕府の存続した日本がどうなっていたのかは知る由もないからです。
しかし、見方次第では、現代、維新の立役者として名高い歴史上の偉人たちは、日本の平和にとっては単なる逆賊であったのかも知れません。
実際、維新以降、日本という国の対外的な躍進をみる一方で、そこに暮らす人々の安寧は確実に蝕まれてきたからです。
あの時代、日本という国は確かに生き延びましたが、それと引き換えに、以後の日本は日本らしさをじわじわと喪失してきたのではないかと思えてなりません。

歴史を以て何が正しく、何が間違っていたのかを単純に裁いてしまうことはできません。
けれども、そこには間違いなく原因と結果の法則が働いています。
ゆえに、歴史をふりかえって我々のなすべきは、そこに観る因果律を注意深くみてとることであり、そこから、今我々の直面する問題に対し、どう対処するかという選択に役立てるということではないでしょうか。
その選択次第で、我々の観る世界は、確実に変わってくるのだと小生は思います。


 

<保守>

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月 4日(水)00時25分9秒
返信・引用
  > No.308[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんばんは。


 他事にかまけて返信が遅れ、申しわけありません。

我々が真に保守すべきものが何であるかは自ずと明らかです。
各々の国、各々の文化が有する誇りを尊重し、これを傷つけぬことが、調和への第一歩となるに違いありません。ゆえに、たとえ相手が中国であれ、韓国であれ、あるいは北朝鮮であっても、我々が敬い、学ぶべき何かは必ずあると小生は思います。
相手の短所ばかりを糾弾してみたところで得るものがないのは、人付き合いも外交も同じではないかと。

 概ね同感であります。
ただ、「保守」の語が意外な曲者で、オツムがこんがらがってきますね。

 政治で用いる場合は、「保守」に対する「革新」。
形容動詞なら、「保守的」に対する「進歩的・革新的」。
政治思想では、「保守主義」に対する「進歩主義」。

 じゃあ、「保守」でなければ「革新」なのだろうか。
「保守的」でなければ「進歩的・革新的」なのだろうか。
「保守主義者」でない人は、すべて「進歩主義者」なのだろうか。
「右翼」でなければ「左翼」?
そんなことないですよね。
野球だって、外野には「右翼手」「左翼手」の他に、「中堅手」だって居るくらいだから。

 こういう両極論になると、どちらにも属さない中間層(?)が全く存在しないかのような錯覚に陥ってしまいます。
しかし、両極に在る人は全体の各一割程度で、残る八割の大多数は中間層の人々であり、時と場合によって右へ行ったり左へ行ったり、振り子が振れるように動いているのではないでしょうか。

 津田左右吉は、『流れ行く歴史の動力』(大正九年)の結語として、次のように記しています。

 元来歴史上の現象は単に或る一ツの思想があり、之が社会に具体化されて初めて歴史の進動があるように考えられておりますが、これは如何にも尤であります。
さりながら歴史を進展せしむる動力は断じてこれのみではないのであります。
述べ来たった二ツの力(「順応型」と「反抗型」)も確かに歴史を動かす動力である。

 徳川三百年の太平を保ったのは、全く組織の力であってそれが明治維新となって新局面を展開したのは反抗型の人の力である。
社会の堅実なる秩序の為には順応型の人も必要であって、その進歩発展の為には物騒なる反抗型の人といえどもまた大いに大切なのであります。

 「順応型」と「反抗型」とは、言い得て妙だと思います。

 “大政奉還”と言えば聞こえがいいが、太平の徳川時代を転覆せしめたのは、津田師が仰るとおり「反抗型」の表現が似つかわしい。
保守派というより、どちらかと言えば進歩派に属する人たちでしょう。
政権の座から引きずり下ろしておきながら、苟且にも“保守派”とは呼べないでしょう。

 歴史を振り返っても、時代の変わり目には「反抗型」、つまり進歩的な考え方の人物が活躍するようですね。

 自称の“保守派”が巣喰う某掲示板は、なんだかんだと文句たらたらで、とても「順応型」には見えないし、完全な「反抗型」でしょう。
世の中を変えたい?
はは~ん、それでは“保守派”とは言えませんね。
するって~と、“進歩派”ですな。
いや待てよ、特別サービスで枕詞を付け、今後は“親米進歩派”と呼ぶことにしよう。

 あくまで個人的な感想ですが、「保守」という語からは、どうしても《守勢》を連想してしまいます。
 雄叫びも勇ましい某掲示板を見るにつけ、「保守」にあるまじき姿と映るのは、やることなすことが極めて攻撃的(《攻勢》)だからでしょうかね。

 
 

Re: <大和>

 投稿者:SHO  投稿日:2012年 1月 2日(月)08時28分22秒
返信・引用
  クロ様

おはようございます。


>  実は個人的に、日本の古称“大和”が気に入ってます。
> 《大いなる和らぎの国》ですね。
> いま、「日本人の国民性」を探ろうとしているわけですが、案外「和」の文字に行き着くような気がします。

黄氏も同様の指摘を行っています。
和とは調和の和。ハーモニー。
多種多様な生命の共存している方が、より繁栄するのが自然界の摂理。
同じように、世界もまた、多種多様な国や文化の共存している方が、より繁栄するに違いありません。
力づくでそれらを均質化、グローバル化していくのではなく、それぞれが独自性を“保守”しながらも共存していくという形態こそが、望ましいはずです。
目指すべきは何かの排撃ではなく、共存共栄。
日本の伝統文化には、世界がそのような道を歩むのに必要な知恵が十分に蓄えられているのではないでしょうか。

しからば、我々が真に保守すべきものが何であるかは自ずと明らかです。
各々の国、各々の文化が有する誇りを尊重し、これを傷つけぬことが、調和への第一歩となるに違いありません。ゆえに、たとえ相手が中国であれ、韓国であれ、あるいは北朝鮮であっても、我々が敬い、学ぶべき何かは必ずあると小生は思います。
相手の短所ばかりを糾弾してみたところで得るものがないのは、人付き合いも外交も同じではないかと。
 

<大和>

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月 2日(月)03時05分8秒
返信・引用
  > No.306[元記事へ]

☆ SHO 様


 まだ夜明け前のおはようございます。

“排撃すべし”というその主張が、そもそも西洋合理主義であったという事実に気付いたのです。
自分以外の何かを敵にみたてて排撃の対象に据えるという発想は、自然を征服すべき敵とみなしてきた西洋型の思考形態そのものなわけです。
伝統的なそれは、排撃ではなく、調和にある。

 なるほどねえ。

 実は個人的に、日本の古称“大和”が気に入ってます。
《大いなる和らぎの国》ですね。
いま、「日本人の国民性」を探ろうとしているわけですが、案外「和」の文字に行き着くような気がします。

わ 【和】

 1 争いごとがなく穏やかにまとまる。
 2 やわらいださま。ゆったりとして角立たない。
 3 性質の違うものがいっしょにとけ合う。
 4 声や調子を一つに合わせる。
 5 二つ以上の数を合わせたもの。
 6 日本。日本語。
 7 大和(やまと)国。

 どれをとっても素晴らしいなあ。

 「倭国」と書いて“やまと”と読ませるのは、中国から観た日本の呼称だとか。
現代にあっても、「小日本」などと小バカにして憚らない彼国らしい。

 “大和魂”という言葉からは《勇猛さ・潔さ》を連想しがちですが、同義の“大和ごゝろ”といった場合、正反対の《静寂・平穏》が思い浮かびます。
 おそらく、どちらも日本人の持つ性質でしょう。
違いがあるとすれば、平時の姿と有事の姿、としておきましょう。

 

Re: <賀正>

 投稿者:SHO  投稿日:2012年 1月 1日(日)18時40分27秒
返信・引用
  クロ様

こんばんは。

> 世の中が、自分を中心に動いてる感じです。

ある意味、小生はいつもそうです(笑)。
年末には幼馴染との酒盛りが恒例で、今回も数名で盛り上がりました。
ブータンや幸福についての話、核武装や原発の是非について。
勿論、皆それぞれに意見は異なりますが、育った文化的背景が似ているので、口論になることもありません。
文化的共通基盤の果たす役割というのは、本当に大きいと実感しました。
世界がたった一つの共同体に纏まる日は、そう遠い先の話ではないかも知れません。

それはさておき、親友たちとの会話で一つ新たな気づきもありました。
これまで、西洋合理主義というものを排撃すべき対象と位置付ける主張には、首肯しつつもどこか違和感を覚えていたのですが、やはり、その違和感は正しかったという結論に達しました。
実は、“排撃すべし”というその主張が、そもそも西洋合理主義であったという事実に気付いたのです。
自分以外の何かを敵にみたてて排撃の対象に据えるという発想は、自然を征服すべき敵とみなしてきた西洋型の思考形態そのものなわけです。
伝統的なそれは、排撃ではなく、調和にある。
相手を変えようとするのではなく、自らを変えるという柔軟な思考です。
そして多分、自らを変えることに成功するならば、しかる後に、目に見える周囲の世界もそれに応じて変容するに違いありません。




 

<賀正>

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月 1日(日)11時25分30秒
返信・引用
  > No.304[元記事へ]

☆ SHO 様


 明けましておめでとうございます。

 つひに幸せを運ぶ御媛君も御降誕あそばされ、満願なお正月をお迎えのこととお慶び申し上げます。

今年は自宅で観る紅白が妙に新鮮に感じられて、久しぶりにこれを最初から最後まで鑑賞するに至りました。

 七年前に会社を辞めて以来、経済的理由もあって、テレビ視聴と新聞購読を廃しました。
テレビに至っては完全デジタル化され、アナログ受信機では“砂嵐”しか映らず、物理的にも視聴不可能。

 したがって極端な話、自分の眼や耳に入ってくる情報は、身の回りで起こることばかり。
ネットのニュースは時々読みますが、それも関心ある記事だけ選べますから、すべて当方が主導権を握っています。

 するとどうでしょう。
世の中が、自分を中心に動いてる感じです。
もちろん、付き合いたくない人にも出くわしますが、そんな人はごく少数。
概ね善良な人々に囲まれて生きている自分が実感できます。

 子供の頃がそうでしたし、いつも昔の話ばかりを持ち出すのも、当時が最も満ち足りた日々だった証拠かもしれません。
これですね、これ。
物質的には貧しかったけれど、精神が今よりずっと豊かだった。
「ボロは着てても心は錦」ってやつ。

 モノは考えよう。
韓流ドラマ、K-POPSの放送に対し、目を三角にして抗議する御方たちが何処ぞに屯していますが、そんなに嫌なら自分が視たり聴いたりしなきゃいいだけの話。
他人様の嗜好を妨害するなんて、とんでもないことと言わざるを得ない。

 私奴も韓流愛好者の一人でありましょうが、だからといって彼の国に憧れたり韓国人になりたい、などと思ったことは一度もない。
韓流ファンのオバサマ方だって、たぶん似たようなものでしょう。
そこにあるのはファン心理であって、西部劇を観たりジェームス・ディーンやビートルズに熱狂するのと何ら変わらない。

 なんだかんだと言いながら、自分自身がつい目を吊り上げてしまいました。

 本年も何とぞよろしくお願い申し上げます。

 

Re: <長女誕生>

 投稿者:SHO  投稿日:2012年 1月 1日(日)08時16分32秒
返信・引用 編集済
  > No.303[元記事へ]

クロ様

あけましておめでとうございます。

>  おめでとうございます。

ありがとうございます。
おかげさまで産後の経過も順調で、昨日退院してまいりました。
最近の産婦人科はまるでホテルのようで、家族が一緒に宿泊できるようになっており、小生もずっと病院に寝泊まりしていました。
とはいえ、あわただしい年の瀬ですから、病院に缶詰になっているわけにもいかず、結構あちこち外出しておりましたが。

最近ではめっきり音楽番組が少なくなったせいか、今年は自宅で観る紅白が妙に新鮮に感じられて、久しぶりにこれを最初から最後まで鑑賞するに至りました。
昨年は「トイレの神様」にふいうちを食らって不覚にも泣いてしまいましたが、今年は「トイレの神様」ほどではないものの、目を潤ませる曲がちらほらありました。題名までは覚えていませんが(笑)。
そんな中、紅組のトリを飾った「津軽海峡冬景色」は、やっぱり良いなと。これぞ日本の歌って感じ。

2012年、マヤ暦によれば、今年、世界のあり方が一つの終焉を迎えるのだとか。
何か期待せずにはおれません。
今年も宜しくお願いいたします。
 

Re: <長女誕生>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月28日(水)09時28分14秒
返信・引用
  > No.302[元記事へ]

☆ SHO 様


 おめでとうございます。






 

<長女誕生>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月28日(水)08時55分10秒
返信・引用 編集済
  クロ様

おはようございます。
おかげさまで昨日、無事産まれました。
超安産で、母子ともに健康です。
ありがとうございました。
 

Re: <時の流れ>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月27日(火)11時57分24秒
返信・引用 編集済
  クロ様

こんにちは。

>  これは津田左右吉師の書物に出てくるわけではなく、「時の流れ」について、卒業文集(小学校)に寄せてくれた或る女先生の祝辞を思い出していたのです。

それは意表をつかれました(笑)。

>   今のような科学が発達し、考えなくても生きていける世の中で、やはり人間らしく生きることは、考えることだ

自らの存在意義について考えることをやめてしまえば、人としてあるべき道は閉ざされてしまうことでしょうね。

> 今では昔となってしまった当時も、“時代の最先端”を生きていたことに気づかされたからです。
> 現在の自分を基準にすれば“過去”であっても、当時の自分は紛れもなく“現在”を生きていた、という「事実」!

結局、過去と呼ばれるものは全て現在の蓄積でしかないんですよね。
同じことですが、未来と呼ばれるものもまた、現在の積み重ねの延長にある。
過去は変えることができないけれども、未来については、選択の余地がいくばくかは残されている。
そう信じて、粛々と今を生きることに専念したいと思います。
 

<時の流れ>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月26日(月)21時58分56秒
返信・引用 編集済
  > No.299[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんばんは。

人々(国民)の生活は、昨日の今日であるように見えて、実は刻々と変化している。

 これは津田左右吉師の書物に出てくるわけではなく、「時の流れ」について、卒業文集(小学校)に寄せてくれた或る女先生の祝辞を思い出していたのです。

 御卒業おめでとうございます。

 早いものですね、あれからもう三年もたってしまったとは。
今はみなひょろひょろのびて、最上級生になりすましているけど、あの頃はずいぶんちびだったですよ。
がやがやわあわあ言って、全校で一番あばれんぼうだった。
それがもうすぐ中学生。
楽しみなような、そして又、何となく不安な気持でいられることでしょう。
人生の一つの区切りとして、新しい気持で卒業入学を、有意義な物にしていただきたいと思います。

 「人間は考えるあしである。」といった人があります。
今のような科学が発達し、考えなくても生きていける世の中で、やはり人間らしく生きることは、考えることだと思うのです

 どんな時でも、最後まで真面目に考え抜く人、こんな人になっていただきたいと思います。

 担任ではなかったので、家庭科くらいしか習った憶えがありませんが、私が在校中に結婚なさった若い先生だったので、ナメきって悪童どもに荷担し、悪戯の限りを尽くしては困らせ、愉快な気分になっていました。
しか~し、家庭科授業や給食時には、結束した女どもの逆襲(?)に遭い、きっちりとしたしっぺ返しを喰らいましたけどね。

 こういった話題は、たぶん聴く側も面白かろうと思うのですが、方向を大幅に逸脱してしまうので、今は止します。

 で以てハッとさせられたのが太字強調部分。
今では昔となってしまった当時も、“時代の最先端”を生きていたことに気づかされたからです。
現在の自分を基準にすれば“過去”であっても、当時の自分は紛れもなく“現在”を生きていた、という「事実」!

 当然、空調の効いた自室やパソコン、携帯電話などがあろうはずもなく、だからといって不便だとか、不自由などとは考えもしなかった。
若いといっても年長者である先生から観たら、自分ら児童のほうが遙かに恵まれた環境に在ったのだ。

 そこで、《今のような科学が発達し、考えなくても生きていける世の中》が、ズシリと響くのであります。
今や家電品がやってくれるので、山の神様がおられなくとも独り暮らしが何とか成り立っているものの、昭和35年当時のままだったら、今頃孤独死していたかもしんない。

 あな恐ろしや。

【追伸】

 先生がおっしゃる「考える」についてですが、なるほど便利な世の中になればなるほど“自らの考え”を必要とする機会が減っている気がしますね。

 殆どの企業(個人でも良いですが)がコンピュータに情報を依存する情況となった現代社会において、コンピュータ様がストライキでも起こされたらもう大変。
 ウチの会社でも半日ほどストップしたことがありました。
時流に乗って威勢がよかったコンピュータ世代は、この日に限ってはどうしてよいかわからず開店休業状態。
しかし、普段はそうした世代にバカにされつつ生きてきた我ら年寄り組は、屁とも思わない。
なぜなら、コンピュータ化以前の面倒な手作業手順を知っているからである。

事務手順/販売手順なども然り。
現在は何でもマニュアル化され、それに従ってさえいればまず支障はないが、応用が利かない。
マニュアルにない場面になると、まったくの無能人間と化す。
こういうときこそ、何事にも創意工夫が必要な時代を生きてきた我ら老頭児(ロートル)が光彩を放ち始める。

【ご参考】
ブレーズ・パスカル

 

Re: <日本人>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月26日(月)19時41分56秒
返信・引用 編集済
  クロ様

こんばんは。

>  実は、《日本人の国民性》に入る予習として、津田左右吉の書物を読み返しているのですが、世間の常識みたいになって巷間伝わる《日本人像》が悉く覆されていく思いがしています。

年明けの書き込みに期待しております。

>  人々(国民)の生活は、昨日の今日であるように見えて、実は刻々と変化している

一日一日の変化はわずかであるけれども、確実に変化を来たしているという意味でしょうか。
十年というタイムスケールで見渡すだけでも、随分色んなことが変化しているのに気付かされます。
今年の場合は震災という大事件があり、人々のメンタリティーに与えた衝撃は大きかったのではないでしょうか。
震災自体は確かに多くの犠牲を伴う悲劇ではありましたが、しかし、人々の価値観や精神性といった目に見えぬ領域には日本人の伝統的な資質を呼び覚ます好ましい変化がもたらされたように感じます。

同時に、原発に依存しようとする人々の心の病理が詳らかにされた年でもあったといえるでしょう。
少なからぬ人々が、自らの意識の裡に巣食った醜悪なる合理主義を自覚するに至ったのではないでしょうか。そこに気付けるか否かで、我々自身の運命も変わってくるように思えます。
もともと運命とは、自らの選択の結果、定まるものであるからです。
聖書に預言された神による峻別とは、他ならぬ我々自身の手による峻別のことを指すに違いありません。
「天は、自ら助くる者を助く」というわけです。
 

Re: <日本人>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月26日(月)14時42分56秒
返信・引用
  > No.297[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。


小生自身はといえば、情緒派が優勢を占める日本では理性派に属するでしょうし、欧米に行けば情緒派の部類に属するような気がいたしますね。

 なあ~るほど、よ~くわかりました。
 情緒派か理性派か、といった両極論は、所詮が相対的なものであって、同じ個人でありながら環境(比較対象)によって見え方が変わってしまうということですね。
 おのれを極端な情緒派と思い込む如何なこの私奴でさえ、理性が皆無ではないのですから。
 両極論には、こうした危うさが潜んでいるということでしょう。

 実は、《日本人の国民性》に入る予習として、津田左右吉の書物を読み返しているのですが、世間の常識みたいになって巷間伝わる《日本人像》が悉く覆されていく思いがしています。

 内容は年明けに移すとして、意味ありげでなさそうな、次の言を書き記して雲隠れすると致しましょう。

  人々(国民)の生活は、昨日の今日であるように見えて、実は刻々と変化している。

 

Re: <日本人>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月26日(月)13時39分43秒
返信・引用 編集済
  クロ様

こんにちは。
依然として生まれません。
母親のお腹の中の方が居心地が良いのでしょうね(笑)。

昨日、NHKで幸せになるための方法を扱う番組をしていました。
コロンビア白熱教室第五回、「幸福になるための技術」です。
その中で面白い統計の話が紹介されていました。
就職活動に際して、就職先のメリット・デメリットを書き出し、それぞれのポイントの重要性を勘案した上で最終的に就職を決めた理性派グループと、片やそうした面倒くさい手続きを経ることなく直感に従って就職を決めたグループとの比較検討の結果、社会人になってからは、明らかに前者の方が社会的地位も給料も後者を上回ったのだそうです。
しかし、仕事に対する満足度は、後者の方が上回ったというオチがつきました。

そこで「欲しいと思うモノを手に入れた人より、手に入れたモノを欲しいと思う人の方が幸せである」と講師は指摘します。時として、数値化された情報は幸福に到達するための過程を困難にしてしまうというわけです。
これは企業の経営者の中にも似たようなことを言う人がいて、綿密な事業計画とリサーチがありさえすれば、起業の成功が確約されるというものではないのだとか。
むしろ、直感的ないけるかいけないかの方が、はるかに重要な場合があるのだそうです。

実は、数年前に小生が開業するにあたっては、開業支援のコンサルタントから、予定地での開業は、周辺のニーズに鑑みると極めて困難という話をうかがっていました。人口に比して競合相手が多かったのです。
けれども、もともと、コンサルタントに相談する以前に故あって土地を購入してしまっていたので、もはや後戻りはできません。
ただ、自分の中ではなんとかなるという漠然とした直感があり、開業してしまったわけですが、結果は予想された通りの大苦戦。
しかし、仕事が苦戦するということは趣味にあてがう時間も多いわけで、実は結構満足した日々を送ることができました。
それでも5年目を過ぎて、さすがにこれではヤバイという状況になったとき、暇な時分に趣味で習った瞑想が奏功し(?)、神々のご支援もあって突如経営は上向きはじめ、カミサンのご機嫌も麗しくなってきたという次第(笑)。自慢話ではありませんよ、念のため(笑)。
何が言いたいかというと、理性的なアプローチで見通すことのできるタイムスパンは極めて限定的であるということです。やはり、直感の側にこそ、真実が横たわっている場合はままある。

けれども一方では、感性にばかり頼っていても、やはり、目に見える結果それ自体は、あまり良くならないという例証が番組では紹介されています。
子供にマシュマロを用意して、しばらく部屋に一人にしておき、大人がもどるまで食べるのを我慢できたら二つ目をあげると約束します。複数の子供を相手にこの実験を行ったところ、我慢できた子供は全体の30パーセント。この実験に参加した子供たちはその後も追跡調査され、その30パーセントの子供たちの方が、残り70パーセントに比べ、大人になった際、社会的にも成功し、犯罪を犯す確率も低かったのだとか。感性で流されるばかりも考え物というわけです。

結局、我々の人生は選択の積み重ねであり、選択によって、己が何者であるかを掘り起こしていると講師は締めくくります。選択の際、理性ばかりではなく、直感も重要であるというわけです。

>  余談ですが、藤原正彦氏によると、人間を論理型と情緒型に分けた場合、日本人は圧倒的に情緒型らしいですね。
> 数学者という理数系論理型に属するはずの先生が、こうした観方をしているところが面白い。

私は藤原氏の著作を二冊しか読んだことがありませんが、いずれも共感できる内容ですね。
「国家の品格」と「日本人の誇り」です。
確かに欧米に比較すると、日本人は情緒的であるのかも知れません。
小生自身はといえば、情緒派が優勢を占める日本では理性派に属するでしょうし、欧米に行けば情緒派の部類に属するような気がいたしますね。
 

Re: <日本人>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月25日(日)16時49分52秒
返信・引用
  ☆ SHO 様


 こんばんはに近いこんにちは。

いまだ、気配もありません。

 ずいぶん悠然とした御子でありますね。

理性と感性とは物事を把握する両輪であり、どちらか一方に偏り過ぎると、人は真実を見誤ってしまうのではないでしょうか。

 もちろんそれはわかっていますが、杉浦重剛『教育勅語御進講』の一節、

  孝とは、子が愛敬至誠の心を以て親に事ふるを云ひ、理屈にあらず感情なり

が、アタマにこびりついているものですから。

しかも本書は、「忠」にしろ「愛」にしろ、およその道徳が感情から湧き起こるものとして、肯定的に捉えてあります。
「憎悪」だって感情だから、突っ込まれると返答に窮しますけどね。

 なのに、あたかも“理屈”が万事に優先するかのように、「現実を直視しない観念論」とか「議論に感情論は禁物」といった具合に、否定的な使われ方ばかりが目立ちはしまいか、との疑問があったわけです。

 余談ですが、藤原正彦氏によると、人間を論理型と情緒型に分けた場合、日本人は圧倒的に情緒型らしいですね。
数学者という理数系論理型に属するはずの先生が、こうした観方をしているところが面白い。
因みに、私は自身を過度に偏向した情緒型と思っていますが、他人様にはどのように映っているのでしょうか。


 

Re: <日本人>

 投稿者:SHO  投稿日:2011年12月25日(日)15時34分48秒
返信・引用
  > No.294[元記事へ]

クロ様

こんにちは。

>  幸せをお与えくださる御君は、もったいぶってなかなか御降誕あそばされないようですね。

いまだ、気配もありません。

>  残念ながら戦後の日本は中朝並みに、何事も見て呉れで判断するザッハリッヒな傾向が強まっていることは間違いない
>  どうしてこうなってしまうかを考えてみるとき、そこにはやはり、近代主義の根幹である科学的合理を“万能”と錯覚した愚かな現代人の姿が浮かび上がる

だから、儲かるなら外国にも原発を造って稼ぐべしなんていう馬鹿げた発想が生まれてしまうのでしょう。
国内で新たな原発を造るのが難しいのに、外国なら良いという発想は、農薬漬けの農作物も、外国で消費するなら構わないという利己的発想そのものなわけです。

>  「観念論」「感情論」といった場合、どちらかといえば否定的な意味に使われていませんか?

理性と感性とは物事を把握する両輪であり、どちらか一方に偏り過ぎると、人は真実を見誤ってしまうのではないでしょうか。
もっとも、合理一辺倒な人には話がまるで通じませんが(笑)。

>  やまとごゝろ”を失くした者を真の日本人と呼べようか。

御意。
 

<日本人>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月25日(日)12時52分44秒
返信・引用
  > No.293[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。


昨日が予定日だったのにもかかわらず、まだ生まれません。

 幸せをお与えくださる御君は、もったいぶってなかなか御降誕あそばされないようですね。

 韓流史劇に『韓明澮(ハン・ミョンフェ)』というドラマがありまして、世の中見たさに7ヶ月の月足らずで生まれたため、“七朔童”と渾名された人物。
 “朝鮮王朝を導いた天才策士”の副題が付くとおり、諸葛孔明や竹中半兵衛に匹敵する希有の戦術家であり、我欲のない純粋愛国者として描かれています。
 まあ、これはドラマを面白くするための“作り話”なのでしょう。
実際の経歴を観ると、ドラマとは正反対に、権力を私物化した“亡国の徒”に過ぎないようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E6%98%8E%E3%82%AB%E3%82%A4


見た目や職業で人を格付けしちゃいけないっていう教えなんですよね。

 おっしゃるとおりだと私奴も思います。

 これを文化的側面にこじつけると、見た目や職業で人を格付けするのが中国・朝鮮ならば、日本の場合、例えそれが建前にせよ、中身(人柄)を重視する、といったところでしょうか。
 ただし、SHOさんご指摘のとおり、残念ながら戦後の日本は中朝並みに、何事も見て呉れで判断するザッハリッヒな傾向が強まっていることは間違いないようです。

 どうしてこうなってしまうかを考えてみるとき、そこにはやはり、近代主義の根幹である科学的合理を“万能”と錯覚した愚かな現代人の姿が浮かび上がるのであります。

 「観念論」「感情論」といった場合、どちらかといえば否定的な意味に使われていませんか?
 これですよ、これ。
「観念」とか「感情」があたかも悪いことであるかのような固定観念(?)が、すでに自身の脳内を支配していることに気づいていない。

 この精神汚染をGHQが端から企図していたとすれば、戦後日本人はまんまと策謀にはめられたわけですね。
そして、その犠牲者たる典型的なアプレ(戦後派)たちが“保守派”を自称して彼方の掲示板に屯している。
なんとなれば彼らを評して、精神的な意味でアバン(戦前派)との繋がりを持たない突然変異種の“新人類”、としておこう。
 生物学的な意味で“血統”が繋がっているだけで、“やまとごゝろ”を失くした者を真の日本人と呼べようか。

 

Re: “蔑視”のしっぺ返し。

 投稿者:SHO  投稿日:2011年12月24日(土)22時45分49秒
返信・引用 編集済
  クロ様

こんばんは。
昨日が予定日だったのにもかかわらず、まだ生まれません。
おかげで、依然としてPCの前に座って返信する時間がございます。

>  消されてはまた、件の人の「抗議文」が貼られていましたね。

件の人はネット専門のストーカーみたいな方ですね。
そういえば、小生も一度つきまとわれたことがございます(笑)。

>  日本には、士農工商の身分制度はあったが、最下層の商人を蔑視する習慣はなかった。
> なぜなら、武士とて、農工商に支えられているからこそ、おのれの暮らしが成り立っていることをよく知っていたからである。
>  《両班(ヤンバン)に非ずんば人に非ず》といった下部層蔑視は、皮肉にも彼らが最も毛嫌いする朝鮮文化そのものであり、その根本は中華思想、つまり、“からごゝろ”以外の何ものでもない。

日本では、たとえそれが建前であるにせよ、職業に貴賤はないというものの考え方が一般的。
ところが米国あたりでは、社会が公然と職業の貴賤を認め、稼ぎの多い人間ほど偉い人なのだとか。
戦争に勝つためなら、どんな非道もオッケーな国なわけですから、そういう国民性も仕方がないといえば、仕方がないのかも。

残念ながら、現状、わが国の国民性も徐々にそこへ飲み込まれつつあるのかも知れません。
右を向いても左を向いても、得意気に語られるのは目先の金儲けの話。
経済目線でしか物事の価値をはかれぬ人々というのは、総じて病んでいると小生は思う次第です。

日本の昔話では、神様はたいてい乞食の格好をなさって人々の前に現れ、その善心をお試しになるというのが定番です。
見た目や職業で人を格付けしちゃいけないっていう教えなんですよね。
でも、意外とそういう話は実話かもしれないと小生は素朴に信じているのです。
 

“蔑視”のしっぺ返し。

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月24日(土)17時55分6秒
返信・引用
  > No.291[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんばんは。

 消されてはまた、件の人の「抗議文」が貼られていましたね。

 野次馬的には、非常に面白くなってきた。

 この方もそうとう粘着質な御方みたいだが、“いたちごっこ”を繰り返すしか能がない管理人も、空前の無能ぶりを露呈している、と言えよう。

 「日本には武士がいなくなり、商人ばかりになった。」
 「投稿者を“お客さま”とは考えてない。」

などと、武士を気取るのはいいとして、その引き合いに商人を小バカにしたことが、逆襲を受けるハメになった遠因である。

 この一点だけをとっても、“やまとごゝろ”を胸に秘めた本物の武士ではなく、武士の恰好をしただけの、中身が“からごゝろ”であることがよくわかる。

 日本には、士農工商の身分制度はあったが、最下層の商人を蔑視する習慣はなかった。
なぜなら、武士とて、農工商に支えられているからこそ、おのれの暮らしが成り立っていることをよく知っていたからである。

 《両班(ヤンバン)に非ずんば人に非ず》といった下部層蔑視は、皮肉にも彼らが最も毛嫌いする朝鮮文化そのものであり、その根本は中華思想、つまり、“からごゝろ”以外の何ものでもない。

 子供の頃、人に何かを依頼する場合のあるべき態度について、先生から諭されたことがある。

 先生曰く、「乞食を見習え!」

 「乞食がふんぞり返ってるか。良い身なりをしているか。」

 今にして思えば、なるほど“お客さまは神様”という前提での顧客対応に応用できる。

 働き口さえない無一文の者が生きるために出来る究極のことと言えば“物乞い”である。
「乞食を見習え!」とは逆説的な教訓だが、観ようによっては“物乞い”だって師に成り得るのである。

 彼の管理人は、商人を小バカにしているから、そういう態度が投稿者対応にも顕れてしまう。かといって、“乞食”にもなれない人である。
恰好だけの“武士”であることがバレたら(もうバレてるが)、生きていけない可哀想な人である。

 

Re: 「無駄」と「合理」

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月24日(土)14時15分30秒
返信・引用
  > No.290[元記事へ]

クロ様

こんにちは。

>  護衛を付けなければならないほどの“大物”になりましたねえ。

えっへん(笑)。

>  彼方の組織は、「義理」と「人情」の狭間に立って常に思い悩む日本人が動かしているというより、メンタリティ自体がビジネスライクに割り切った西洋人に近い
>  共有できるものが何一つない、営利目的でのみ結ばれた利益集団(ゲゼルシャフト)の側面ばかりが際立ち、共同体(ゲマインシャフト)的要素は皆無に等しい

すこぶる同意いたします。

>  知りませんでしたが、機械類にも“遊び”という無駄が必要なのだそうですよ。

車のブレーキにも“遊び”がありますよね。
人生にも遊びがなければなりません。
もっとも、小生の場合、カミさんに言わせれば遊びだらけかも(笑)。
 

「無駄」と「合理」

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月24日(土)11時10分25秒
返信・引用
  > No.289[元記事へ]

☆ SHO 様


 おはようございます。

やはり職場のPCからはアクセス不能(真っ白)になったままのようです。勿論、桜の掲示板のみ。
正直、こんなことができるのかという新鮮な驚きとともに、ここまでしなければならないのかと呆気にとられます。
余裕がないというより、進退窮まっているのでありましょう(笑)。
まさに、末期症状かと。

 護衛を付けなければならないほどの“大物”になりましたねえ。
特定IPアドレスからアクセスできないようにすることは可能です。
当掲示板も、そういう処置が執れるようになっています。

 昨深夜も彼方で「猿」という人が、管理人に抗議文を貼り付けていましたが、今朝方痕跡なく抹消されていました。
この御方は、私奴とは考え方がまるで正反対で、意見が合うなど一度もなかった人ですが、彼の抗議に理があるように思えて同情したくもなります。
処置自体が、「血」も「涙」もない一種の“言論封殺”としか映らないからです。
つまり、人間味を失ったロボット型組織であることが、端なくも露呈したわけです。

 人格を持たない法人(組織)VS血の通った人間という構図でみればそれも当然ですが、組織とて人間が動かす以上、判断も組織の人間が行うのですから、そこには否応なく組織の人間的側面が滲み出ざるを得ません。

 そう考えたとき、彼方の組織は、「義理」と「人情」の狭間に立って常に思い悩む日本人が動かしているというより、メンタリティ自体がビジネスライクに割り切った西洋人に近いな、という気がします。
 要するに、共有できるものが何一つない、営利目的でのみ結ばれた利益集団(ゲゼルシャフト)の側面ばかりが際立ち、共同体(ゲマインシャフト)的要素は皆無に等しい。

 無駄を省き合理のみを追求した場合、組織であれ人間であれ、いずれ破綻する。
 彼方での“無駄”とは「都合の悪い意見」、“合理”とは「都合のよい意見」、としておきましょう。

 小津安二郎監督『お早よう』(昭和34年)という映画があった。
テレビを買って欲しいとせがむ二人の息子に、父親が「無駄口叩くな」と叱りつけ、以後反撥した子供たちが口を利かなくなるという内容。
 結論は、子供たちの叔父にあたる佐田啓二の次のひと言。

  「世の中(“人間関係”を指して)は無駄があるから、案外上手くいっているんじゃないのかなあ。」

 会社(組織)とて同じ、利潤のみを追求すればするほど、顧客との軋轢が増大する。
 そこには、会社の利益に直接繋がらなくとも、顧客のためにはなるという“無駄”が必要なのである。
そして、顧客のために散財(?)したお金も、いつかは自分の手許に戻ってくる。
  “お金は天下の回りもの”なのですから。

 知りませんでしたが、機械類にも“遊び”という無駄が必要なのだそうですよ。


 

Re: <影響力>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月24日(土)08時41分42秒
返信・引用
  クロ様

おはようございます。

> >今朝方あちらを覘こうとすると、なんだか真っ白になっていて閲覧できませんでした。
> >風邪でもひいたのでありましょうか(笑)。

と、先日書いたわけですが、これは職場のPCからのお話。
昨日、自宅のPCからはアクセスできたのに、本日ためすと、やはり職場のPCからはアクセス不能(真っ白)になったままのようです。勿論、桜の掲示板のみ。
正直、こんなことができるのかという新鮮な驚きとともに、ここまでしなければならないのかと呆気にとられます。
余裕がないというより、進退窮まっているのでありましょう(笑)。
まさに、末期症状かと。
 

Re: <影響力>

 投稿者:SHO  投稿日:2011年12月22日(木)18時41分7秒
返信・引用 編集済
  > No.287[元記事へ]

クロ様

こんばんは。

>  「休暇取得」なんて、お相手できない場合の予防線を張っただけであることが、すっかりバレてしまいましたね。

どうぞお気づかいなく。
どの道、小生も今日明日から掲示板への書き込みが困難になりますので。
なぜなら明日は家内の出産予定日。
おまけに年賀状がまだ終わっていないという始末。
ズボラな性格はいくつになっても治りません(笑)。

> ということで、年が明けましたら「国民性」を探ってみませんか?

カンニングペーパーを用意しなければ(笑)。
 

Re: <影響力>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月22日(木)16時15分57秒
返信・引用
  > No.286[元記事へ]

☆ SHO 様


 こんにちは。

 「休暇取得」なんて、お相手できない場合の予防線を張っただけであることが、すっかりバレてしまいましたね。

・・・小生は天皇論なる高尚な薀蓄を垂れたつもりは毛頭ないので、・・・

 そうではないかと、私も思っていました。
そもそも、「天皇論」というおつもりではなかったでしょうし、
どちらかといえば、「日本人(一般庶民)の“優れた”国民性」に主眼があったわけでしょう?

 ただ、「からぶり」というのは、投稿者(初時雨さん)を主語にした感想であって、SHOさんのあのスレッドが空振りに終わったという意味ではないと思いますよ。
(まあ、此処であれこれ想像しているだけじゃ、何も始まりませんけど・・・。)

ということで、年が明けましたら「国民性」を探ってみませんか?

 私奴はこれにて“逃亡退散”しますが、年内にもお時間が許せば、話題を問わず、遠慮なく当掲示板をご活用ください。


 

Re: <影響力>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月22日(木)14時33分45秒
返信・引用 編集済
  > No.285[元記事へ]

クロ様

こんにちは。

>  実存主義者(sakamoto)さんの掲示板を覗いたら、初時雨(どなたかは見当が付きますが)さんとおっしゃる御方が、批判的感想を書いてみたい、と書かれていました。

結局、天皇論と呼べるような代物ではないと結論なさっておいででしたね(笑)。
「からぶり」だったそうです。
それもそのはず、小生は天皇論なる高尚な薀蓄を垂れたつもりは毛頭ないので、何かの間違いではないかと思っておりましたが、やはり勘違いだったようです(笑)。

小生のスタンスはいつでもそうですが、無知蒙昧なる素朴な一庶民。
もともと専門外のテーマを語っているので、学問的に大した知識があるわけではなく、あくまで庶民としての素朴な感性に頼って得手勝手な屁理屈を述べているに過ぎません。
もっとも、小生はそれでよいと思っているのです。
宗教学者に神の何たるかを尋ねたところで、満足のいく答えを得られるはずがありません(笑)。
実感の伴わない話は疑ってかかるべし。
だから、原発の御用学者がいくら安全を謳ってもそれを信じてしまうこともなかった。
そんなところです。
 

Re: <影響力>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月22日(木)08時45分44秒
返信・引用
  > No.284[元記事へ]

☆ SHO 様


 おはようございます。

少々残念だったのは、それらに対して直接応じる機会の失われたことでしょうか。

 実存主義者(sakamoto)さんの掲示板を覗いたら、初時雨(どなたかは見当が付きますが)さんとおっしゃる御方が、批判的感想を書いてみたい、と書かれていました。

http://6131.teacup.com/dartford/bbs


 

Re: <影響力>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月22日(木)08時33分19秒
返信・引用
  > No.283[元記事へ]

クロ様

おはようございます。
今朝方あちらを覘こうとすると、なんだか真っ白になっていて閲覧できませんでした。
風邪でもひいたのでありましょうか(笑)。

> 力関係において遙かに立場の弱い、自社内一投稿者(SHOさん)に憤懣をぶつけるのですから、
> たいした“お偉いさん”ですよ。(大爆笑)

ついにでましたね、大爆笑の三文字(笑)。
実際、あれほど上手くいくとは思っていませんでした。
とはいえ、小生の主張については賛否両論あるはずで、少々残念だったのは、それらに対して直接応じる機会の失われたことでしょうか。
自分たちでスレをロックしておいて、「素直に議論できないのはどうしてか」とのたまうわけですから、呆れる他はありません。
果たして、あのスレが残ることで曝しものになっているのは小生なのか、それとも彼ら自身なのか、閲覧者の良識に委ねたいと存じます。
 

Re: <影響力>

 投稿者:クロメール  投稿日:2011年12月21日(水)15時08分47秒
返信・引用
  > No.282[元記事へ]

☆ SHO 様

再びこんにちは。

あれほど早くいきなり本マグロがかかったのにはびっくりしました(爆笑)。
きっと、余裕がなくなってきているのでしょうね。
お気の毒なことです。

 御意。

 掲題に挙げた“<影響力>の差”を、まざまざと見せつけましたね。
 非難対象のNHKやフジテレビ等同業他社にさえ無視され、
力関係において遙かに立場の弱い、自社内一投稿者(SHOさん)に憤懣をぶつけるのですから、
たいした“お偉いさん”ですよ。(大爆笑)










 

Re: <影響力>

 投稿者:SHOメール  投稿日:2011年12月21日(水)13時43分36秒
返信・引用 編集済
  クロ様

こんにちは。

>  目論見どおりでしたね。
>  まずは、「おめでとうございます。」と言っておきましょう。

折角お休みに入られたのに、わざわざお気にかけていただき、ありがとうございます。
かのスレの原稿は、クロ様なしには編み上げることができませんでした。
心より御礼申し上げます。

まあ、思ったより早く決着がついて、冬休みは子守に専念できそうです(笑)。
それにしても、最初はコバンザメあたりを覚悟しておりましたのに、あれほど早くいきなり本マグロがかかったのにはびっくりしました(爆笑)。
きっと、余裕がなくなってきているのでしょうね。
お気の毒なことです。


 

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