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Re: 陳言套語

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 3月10日(土)14時16分55秒
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  > No.355[元記事へ]


《前稿のつづき》


 一体、日本人には、事実の如何を顧みないで、勝手次第な独断説を唱え、それがさも明白な事実であるかの如くに説く癖がある。かつて日本と支那とは同文同種の国だというような言葉の流行ったことがある。同文は明らかにウソである。漢文を解する者が日本人の一小部分にあったとて、どうして同文と言い得よう。同種というのは黄色人種とか亜細亜人種とかいう茫漠たる意味で言うならば差し支えなかろうが、その代わり、実際上、何らの意味のない同種である。言語を異にし、習慣を異にし、気風を異にし、生活を異にする日本人が、事実上、同人種らしき親しみを有っていないことは事実ではないか。近頃はまた、日韓人は同一民族だということが言われている。これも学問上まだ肯定せられていないことであるのみならず、事実上、日本人も朝鮮人も相互にそういう感じを抱いていなかったではないか。種々の密接な関係があった上代においてすら、同一民族であるという親しい感情を有っていなかったことは歴史の明らかに語るところではないか。上代に朝鮮半島の全部もしくは大部分が日本に従属していたようにさえ言う者があるらしいが、それが事実でないことは明白である。あるいはまた日本民族は一家族から別れたものであるという。そんなことのあり得べきはずがないことは、少し考えてみれば、直にわかろうではないか。ところが世間では、こういう事実に背いている言説を前提として、だから日支は一致せねばならぬ、だから朝鮮人は日本に服従すべきものである、というような説法をする。よしこの前提が間違っていないにしても、この「ある」から「しなければならぬ」を抽ぎ出すことが、また甚だ怪しい論法であるが、それはそれとしても、前提そのものが既に間違っているのである。日本と支那とが協力すべきものであるならば、それにはそれだけの実際的な理由があるべきはずである。日韓併合にも当時の形勢上、そうしなければならぬ実際上の必要があったからであろうと思う。虚構を基にした空疎な説法をする必要はない。日本は家族制度の国だとか、日本人の国民的精神は『古事記』で定まっているとかいうようなことも、畢竟これと同じ性質のものである。現在の事実、現に人々の心を流れている生きた感情を基礎とせずして、空疎な理窟を構造し、それによって人を支配しようというのは、徳川時代の学者などの通弊であったが、今日でもなおそれが行われている。そんな理窟に何の権威があろう。

 あるいはまた、日本人は日本人として考え、日本人として行動しなければならぬ、というようなことを言う者がある。ちょっと聞くと甚だ実際的の論のようであるが、実はこれほど空疎な言はない。我々が或る考えを抱くのは、自分の現実の生活がそう考えさせるからである。我々が或る行動をするのも、現実の生活がそれを要求するからである。外部から観察すれば、それが自ずから日本人らしい考え、日本人らしい行動であるかも知れぬ。しかし考える者行動する者自身に一々そんな意識があってのことでないことは、明白な日常の事実ではなかろうか。

 しかし日本々々と絶叫する人々の考えに空疎な論が多いと同様、世界の大勢々々と呼号する人々の言うことにも、やはり空疎な点がある。日本の国民生活も世界共通の状態を有っている。だからその点において世界共通の要求を生ずる、というのならば異議はない。が、日本と世界というものを対立させた上で、世界の風潮だから日本もそれに従わねばならぬ、というのならば、それは日本は家族制度の国だから云々というのと大差のない論である。我々は現在の社会や政治の状態に対して大なる不満足を感じ、それを改革しようという強い要求を有っている。欠陥だらけの社会や政治の状態が、我々国民の生活を圧迫し脅嚇するからである。だからこの要求はすべてが自分らの現実の生活そのものから出ている。書物の上から得た知識のためでもなく、異国人の運動のためでもない。ただこの生活と、そこから生ずる内心の要求とが、世界共通の生活状態、従ってそれから生ずる世界共通の要求と一致する時において、始めて世界の大勢ということに、意味が生ずる。大勢に順応するということは、こういう意味からでなければならぬ。その根柢に人間としての共通の要求があることは勿論である。ところが、この点において世間の大勢順応論には頗る曖昧なものがあるようである。例の外来思想論も、その欠陥を見つけて起ったものと言えば言われよう。

 デモクラシーの要求をも、軍国主義に対する反対をも、社会問題をも、労働問題をも、すべて外来思想という語の下に一括し去ろうとしている一派の人々の考えが、事実に背いていることは、言うまでもなかろう。これらはすべて我々の現実の国民生活が生み出したものである。それが定まった形になるについては、知識として与えられた外国人の考えやその運動が資料を供給したことは明らかであるが、我々国民はそういう知識を有っているためにそういう要求をするのではない。我々国民は官僚政治や軍国主義や資本家の跋扈する現在の経済状態に対して、内心から痛切なる嫌厭と不満足とを感ずる。だから、それを改めようとするのである。それは我々の現実の生活が生み出した我々自身の要求であって、決して外人から教えられたのではない。外人から種々の知識を得てはいるが、それとても我々の生きた思想となるについては、自ずから取捨が行われている。即ち我々の内心の要求、我々の現実の感情に適合することのみが了解せられ摂取せられるのである。しかし世間には現在の状態に対して不満足や嫌厭を感じない人々もある。我々が欠陥多しとする政治や社会の状態に順応して生活の便を得ている人たちにこういう傾向のあることも自然である。そういう人たちは我々の思想を了解することができず、我々の要求に共鳴しない。だからそれを外来思想だと考える。これは当然の成り行きであるが、しかし単に知識上の問題としてみると、世界の大勢だから日本もそれに従わねばならぬ、というような空疎な大勢順応説がこういう考えを誘致する一因となったことも事実らしい。もっともこれには歴史的の因襲も幾らか存在する。

 昔、儒教という支那思想が入って来た。これは単に書物の上の知識たるにとどまっていて、国民の実生活とは殆ど交渉のないものであった。だから、それは何時まで経っても外来思想たるに過ぎなかった。今日でもやはり勢力を失った外来思想の名残として、どこかの片隅に余喘を保っている。ところが、自分らの実生活、自分らの生きた思想から、道徳や政治の学問を組み立てることを知らなかった昔の儒者輩は、この外来思想をそのままに受け入れてそれを金科玉条としていた。そうしてそれによって実生活を律しようとした。けれどもそれは到底不可能事である。だから、結果から見れば儒者はただ実生活から遊離している書物の上の知識としてそれを説くにとどまったのである。今日の外来の知識はそれとは全く性質が違っていて、その知識の根柢をなしている実生活そのものに内外共通の点がある。従ってそういう点についての外来の知識は我々の現実の感情と調和する限りにおいて直に実生活に吸収せられ、我々の生きた思想となるのである。けれどもそういう体験のない人たちは、恰も昔の儒教思想と同様にそれを見て、一口に外来思想と考えてしまうのである。思想というもの知識というものが実生活と離れて入ってくると思うのが、儒教を受け入れていた昔からの因襲だからである。そうして彼らがいわゆる外来思想を怖れるのは、そういう実生活に根拠のない知識で実生活を支配しうるものと思うからであって、それもまた昔の儒者と同じことである。

 以上は日本主義また大勢順応主義とも言うべき世論についての僕の陳腐なまた極めて大ざっぱな意見である。だらしなく思いつきを並べたのみで、頭も尾もないものになったが、その点はお許し願いたい。

                          をはり。

 
 
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