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陳言套語

 投稿者:クロ  投稿日:2012年 3月 9日(金)15時04分58秒
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   すっかりご無沙汰してしまった関係で、“荒らし”も寄りつかない普段通りの掲示板に戻りましたね。

 櫻粋會掲示板を覗いたら津田左右吉の名前が出ていた。『陳言套語』(大正九年)という寄稿文があるのでご紹介してみよう。御用学者とはまったく異なる視座が窺い知れて興味深い。

 今なお世間の一隅には、我が国固有の風俗とか固有の国民的精神または国民性とかいうことを高唱している者がある。風俗とか国民的精神とか国民性とかいうものが、昔から今まで動かないで固まっていたものであるかのように聞こえる。が、そんな考えが事実に背いていることは言うまでもなかろう。

 例えば、我が国は家族主義の国であるという。家族主義という言葉の意味は甚だ曖昧であるが、世間で言うところを聞くと、徳川時代に行われていたような家族生活の状態を指すらしい。それならば、それは鎌倉室町時代から徐々に発達し、徳川時代になって出来上がったものであって、決して昔からの有様ではない。上古は勿論のこと、平安朝の貴族どもにおいても、その家族生活は全然いわゆる家族主義とは違ったものであった。また今日の家族生活が徳川時代のに比べて変わって来ていることは、明白な眼前の事実である。こういうように、家族生活の状態は歴史的に変遷して来ている。決して固定したものではない。何らかの形においての家族生活は昔も今もあるが、それは世界の大抵の民族がやはり何らかの形において家族生活をしていると同じほどのことである。

 我が国の大なる誇りとせられていることについても同様である。その形体は同じでも、その内容のなすところの実際の国民の感情は時代時代において変わって来ている。知識としてのその解釈もいろいろであって、古いところですら『古事記』などに説いてあることと、支那の政治思想が入って来てからのとは、全く違っている。今日の我々の生きた感情が『古事記』や支那思想に支配せられていないことは、明白な自己心中の事実である。ただその感情も知識も変化しながら、この形体との調和が失われずに来たのである。そうしてそれはこの形体自身において時勢の推移に順応し得べき特質を具え、また実際、時と共に推し移って来たからである。

 この変遷は決して無意味なものではない。人間は、個人としても国民または民族としても、その生活を維持し開展してゆくために、言い換えると、断えず起って来る環境の変化に順応し、またそれを支配しそれを新しい方向に導いてゆくために、断えず生活そのものを改造してゆく。それが即ち歴史の過程である。生活力の強い人間または国民ほどこの運動が盛んであるので、それが衰えまたは停止すれば、個人としては老衰であり、国民としては亡国である。幸いにして日本人は生きていた。また生きている。過去においては頗る貧弱な生活をして来たものの、ともかくも、こういう歴史を形づくっている。家族制度も種々の政治組織もみなその生活の必要から形づくられ、そうして生活状態の変化と共に、あるいは風習や制度そのものが変化し、あるいはそれが変わった意味に考えられて来るのである。さて過去において変化を経て来たとすれば、現在もしくは未来においてもまた同様でなければならぬ。歴史が停止しない限り、国民が滅亡しない限り、この変化はなくてはならぬ。例えば家族生活の有様は徳川時代に比べて現に大なる変化をなしつつある。あるいは人々がそういう過去の因襲の羈絆(きはん)から脱しようと努めている。それでこそ今の社会が動いているではないか。あるいはまた形体の変わらぬものにおいても精神は変わって来ている。形体は変わっても精神は変わらぬというのは誤りである。新しい国民生活、新しい国民の活動には、新しい国民精神がある。そうしてその変わってゆく精神に順応しうる弾力を具えた形体ならば、精神は無限に変化していっても形体は依然として維持せられる。あるいは旧い形体を断えず新しい精神で活かしてゆくことができる。之に反して今日の守旧主義者はこの形体を少しの弾力もないものにしようとしている。端から見ると甚だ危険である。

 勿論、個人に個性の自ずから生ずる如く、国民にも自ずから国民性が生ずる。そうして、個人について個性の尊重せらるべき如く、国民としてはその国民性を尊重すべき十分の理由がある。しかし、個性があるといっても、そういう特別のものが変転極まりなき日常生活の間に立って始終不変に存在するのではなく、生きた人格によって統一せられ、実際生活において具体的に現れるものであると同様、国民性というものもまたそういう固定したものがあって実生活の変化の上に超然として立ち、実生活の影響を受けずして毅然として存在するというようなものでなく、国民生活そのものに断えざる連続があり、それが一つの生命の流れとして内部的に統一せられていることをいうのである。だから、この個性も国民性も決して、生まれた時から、もしくは国の初めから、出来上がっていたものではなく、長い間の生活の過程、即ち個人なり国民なりの歴史によって、また生活そのものから、生活そのものにおいて、漸次形づくられ、不断に発展しつつあるものである。

 昔、支那流の伝記家が人の伝を立てる時には、必ず幼にして大志ありとか、既に大人の気ありとかいうのが常であって、年をとってからの人物が小児の時に既に完成してたかの如く、そうしてそれが何時も固定しているかの如く、書いたものである。今日ではこんな考えで伝を書く者はあるまい。ただ不思議なことには、国民性とか国民的精神とかいう場合になると、やはりこの筆法でゆく論者が多い。が、今日の国民性が国家統一の初めから完成していたはずのないことは、言うまでもなかろう。のみならず、今日とても我々の国民性は決して完成せられているのではない。限りのない未来を有っている我々の国民にとっては、過去の千四、五百年は、個人に比較して言うと、極めて短い幼童期であろう。さすれば我々の国民性は、これから後の生活において、漸次形成せられ開展せられてゆくべきものである。今日において国民性が完成せられていると思うのは、五、六歳の幼童期に人物が完成せられていると思うのと同様である。こんな未熟な国民性がそのままに固定してよかろうはずがない。短い過去にのみ執着するよりは、無限に長かるべき未来に向かって目を開かねばならぬ。

 我が国の過去に固定した風俗や国民性があるように考え、そうして将来もそれをそのままに保存してゆかねばならぬように思うのが間違いである。ということは、これだけでも明らかであろう。こういう間違った考えを有っている人々は歴史に重きを置いているように自らも思い、人にも思われているらしいが、実は全く歴史を知らぬ者である。少なくとも歴史的発展ということを解しない者である。またこういう人たちは、昔の思想や風俗がそのままに近頃まで行われていたように思っているくらいであるから、現在の新しい思想を考えるについても、それと同じものが昔にもあったように説く。今日の立憲政体は神代史にも現れている我が国固有の政治思想の発現であるという。あるいは、聖徳太子の憲法にデモクラシーの精神があるなどという。まるで昔の時代をわきまえず、その時代の精神をも解せざる者である。のみならず、現在の事実をも知らぬ者である。


《つづく》


 
 
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