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<賢者の選択>

 投稿者:SHO  投稿日:2012年 2月 2日(木)12時45分50秒
  通報 返信・引用 編集済
  (愚見の総括です。ご笑覧いただければ幸いです)

多数で議論するのは正しいことだ。しかし、多数決でものごとを決めるのは、必ずしも正しいことではない。通常、最高責任者と呼ばれる者が最終決断を下すなら、多数決は必ずしも必要ないのだが、民主主義においては、その性格上、どうしても多数決を採用せざるを得ない場合がある。その場合、多数決でも比較的正しい判断が下せるような工夫が必要となるだろう。となれば、討議はより開かれた多人数で行い、決定は選ばれし少数の賢者が多数決で行うというのが民主主義の理想ということになるが、もし、それがうまく機能していないとすれば、それは賢者の選定に問題があるからだ。
現状、政治家の選定は資格試験があるわけでもなく、大衆を相手にした人気投票で行われている。政治家は本来、国家の治療家でなければならず、いかに人気があって正義感に燃えていようと、専門知識に欠けた医者に仕事をさせたところで、病が治る道理はない。衆愚の代表が賢者足り得るはずもなく、本当は選ぶ資格と選ばれる資格を厳しく問う必要があるのだ。

しかし、選ばれる資格を学識豊かであることのみにしてしまうのは問題がある。なぜなら、規格外れな人間の方が優れた場合もあるからだ。実際、アウトサイダーの意見というのは時勢を変えてしまう場合がある。もとより、優れたアウトサイダーというのは、表立った社会の評価基準から外れているというだけであって、馬鹿というわけではない。また、知識があるだけで冒険ができない学者のことを指して賢者と呼ぶこともできない。
乱世に有用な人物とは、一見、周囲からは愚者にみえるようでも、本当の愚かさが何であるかを知る賢者、周囲から非常識とそしられることを恐れぬ勇気ある人のことである。常識人が思いつかないことを思いつく発想の豊かさ、それを実行できる行動力、どれをとっても本当の馬鹿にはないものだ。常識人ができないことをやってのけて、しかも成果をあげる人というのは、馬鹿なようにみえても実は馬鹿ではない人なのである。周囲からは後先考えず行動しているようにみえても、本当に後先考えていないのではなくて、普通の人が思う以上のはるか後々が直感的に見えているから、そのように行動しているだけなのだ。

そもそも、賢者の条件とは、己が過ちを犯す不完全な存在であることを心得ていて、過ちを犯したことに気付くことができる人間といえるだろう。即ち、己の愚かさを悟れる者が賢者であるというわけだ。いつでも正しい判断を行えるのが賢者ではあり得ない。逆に、愚者とは己の愚かさを悟れぬ人間である。賢者が指導者である限り、仮に道を違えたとしても、早晩、そのことに気付いて道を正すことができるだろう。“君子は豹変す”のごとく、過ちを犯したことは、その過程を以って教訓とすることができるからだ。
ゆえに、最終判断を多数決に委ねたとしても、賢者によるそれは、不完全な方法であるという認識と合意に基づいて行われるため、その選択が正しかったかどうかを逐一監視して修正を施すというスタンスがとられることになる。
一方、愚者が指導者である場合、道を違えても、なかなかその過ちを認めることができず、傷口は限りなく広がって行くこととなる。反省がないから、教訓もない。教訓がないから、何度でも同じ過ちを繰り返すことになってしまう。

つまるところ、民主主義の課題とは、賢者の選定をいかに行うか、いかなる基準で賢者を選ぶべきなのかという問題である。本当に優れた人物というのは、学歴等の評価基準からは外れていたとしても、時とともにその資質を顕し、それに見合った業績を残すようになるものだ。ゆえに、社会が注意深く見守って賢者を選ぶなら、賢者を見誤ることは少なくなるはずだ。これが、選ばれる資格のみならず、選ぶ資格が厳しく問われるべきであるという所以である。猫にも杓子にも選挙権が与えられた挙句、外国人にまで選挙権を与えようなどという発想は方向性を違えている。のみならず、これまで政治のせの字も知らなかったような人間が突如政治家に立候補してしまうという現象は、迷走する民主主義を象徴するものであるだろう。

大衆とは己の過ちを認めることができず、自分以外に責任の所在を求めがちな人々のことである。大衆は政治がよくならぬ理由を他人のせいにする。やれ官僚が悪い、政治家が悪いという具合だ。そういう人々はまた、次から次へと己以外の敵とも戦わねばならぬ運命にある。目に見える敵が己自身の過去の姿であることに気付けぬ限り、その戦いが終焉を迎えることはない。己の愚かさに気付けないために、広がった傷口も治癒することがないのである。そのような大衆の代表が政治に携わったところで、次から次へと敵と戦わねばならぬばかりで、問題の収束するはずもない。指導者選びを大衆の人気投票で行っている国の政治が少しでも良くなるには、各々自ら、己自身の裡に潜む大衆から脱却せざるを得ないことだろう。

 
 
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