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Re: 日本人の国民性

 投稿者:クロメール  投稿日:2012年 1月14日(土)18時00分25秒
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  > No.338[元記事へ]

 津田左右吉著『我が国民思想の研究』(岩波文庫;八分冊の一)
  第一篇「貴族文学の発達時代」第一章「文化の大勢」より抜粋

 我が上代の文化は支那の文化を学んだがために発達したのであるが、発達すると共に益々此の文化の本源に対する景仰の念が高くなり、従つて愈々深くそれを学ぼうとする。これは抑へようとしても抑へられない人間の向上心、美しいもの善いものに向つて進まうとする内的要素の自然の発現である。さうして推古朝の前後が其の憧れの著しく盛んになつた時である。実際、我が国民生活を彩る異国文化の色調は此の頃から際立つて濃厚になつて来た。それは支那の学問技芸が今までよりも一層多く伝へられ、政治や道徳の思想も入り、又支那化した仏教も伝へられたからであるが、政府の当局者が支那流の礼文政治主義を我が国に適用しようと企て、新来の文化をそれに結びつけようとしたために、特に其の調子が高まつたのである。従つて此の時代からは文化が一種の政治的意義を帯びて来て、それを表象するものが政府であるといふ形になつた。

 此の新しい政治的施設の中心は聖徳太子の事業であつて、政府の訓令めいた形で発表せられた所謂十七条の憲法も、冠位の制も、みな其の現象である。これは大化の改新の前幕とも称すべきものであるが、君主本位・官府本位の支那式政治を学ぶに当つては、第一に宮廷と政府との体面を飾らうとするのが自然の勢であり、また実際支那人に接してみると、何よりも先にそれが目について模倣したくもなり、帰化人などが顧問となつて献策するにも、それを主としたのであらう。だから衣冠を飾り朝儀を整へるといふやうなことが先づ行はれたのである。憲法にしても、やはり文字の上で支那式の礼文主義を示したまでであつて、いはば思想の上で政府の体面を整へたに過ぎない。十七条にはいろいろに美しい文字が並べ立ててはあるが、畢竟、抽象的理論、一般的教訓であつて、時勢にも国民の生活状態にも特に切実であると認められるものはない。全体に穏当ではあるが、改革者の意気は少しも其の上に現はれてゐず、充実した、力強い精神が見えない。太子の行動を見ても、「不順君父」を戒めてゐながら、蘇我馬子を抑へることが出来なかつたではないか。

 要するに太子の施設は実際の国務を改新するよりは、朝廷の外観を支那式にするのが先に立つてゐたのである。従つて是がために、前代から貴族社会に学ばれて来た支那の文化は、政府の力によつて急速に進歩するやうになつたけれども、国民の多数はそれとはさしたる関係が無かつた。政府の間にも亦国民全体の実力を発達させようといふ考は一向に無かつたらしく、憲法にも民業に関して一、二消極的の注意はあるが、積極的に産業を奨めようといふやうな様子は少しも無い。これは、一つは民を治めるといふことを主としてゐる支那式政治主義の余弊でもあり、一つは国際競争のない時代で、国民の実力に依頼して何事をかしなければならぬといふやうな事情が無かつたからであらう。だから此の新しい政治主義の効果は、単に従来からの傾向であつた貴族文化の趨勢を一層強めたのみであつた。

 聖徳太子の遺業を紹述拡恢し、蘇我氏滅亡の機に乗じて唐の制度を我が国に移植しようとしたのが、中大兄皇子と中臣鎌足との手に成つた大化の改新で、それを法文の上で完備させたのが不比等らによつて大成せられた大宝の律令であり、新制の規模を形の上に現はしたのが奈良の奠都である。これらもまた、国民生活の実際を基礎として其の内的要求から企図せられたといふよりは、唐制を模範として机の上で作り上げられたといふ方が適切である。多少の変改は勿論施されてあり、それが国情に適ふやうにとの用意からであることも想像せられるが、全体の動機と其の成績とから考へると、形式の整備が主になつてゐるやうに見える。実際その制度にはぢきに空文となつてしまふものさへあつたらしい。伴造どもの私有地が大化の改新によつて、事実上悉く国有となつたかどうかさへ疑問である。法令によつて定められた俸禄のみで、彼等が旧来の生活と地位とを維持してゆかれたかどうか、頗る覚束ない話であつて、後になつて墾田などが漸次権門の私有に帰してゆくのも、無理の無い趨勢であつたらう。班田の制なども其の初めは場所によつて或る程度まで実施せられたらしいけれども、一種の空想に過ぎない此の極端な共産的制度が長く継続せられるべきもので無いことは、いふまでもあるまい。

 それならば新しい制度に於いて何が実行せられたかといふと、それは主として政府を存立させるための事務、即ち政府の編制、其の儀式礼典などと、其の経費を支弁するために租税を徴収することとであつた。だから新制が国民の実際生活を益するところは割合に少なかつたのである。これがために産業の興るでもなく、生活の程度が高くなるでもなく、また国民としての活動が盛んになるでもなかつた。政府が多少産業を奨励したことはあるが、それは主として朝貢のためであり、学校を設けたのも国民の智能を開発するためではなくして、中央や地方の官吏を養成するためであつた。要するに凡てが政府を存立させる手段にすぎなかつたのである。

 新政の大体が国民生活の実際に適切なものでなかつたのみならず、新政府の規模もまた国務不相応のものであつた。今まで官制らしい官制も無かつた族制政治から、一足飛びに八省百官の事々しい制度を作つても、実際それだけの国務は無かつたろう。法令のみで無い。「四禽叶図、三山為鎮」として誇られた奈良の京の規模なども同様である。官闕と寺院とは輪奐の美を極め、条坊の制は整然としてゐた。けれども、あんな広い京に実際の住民はどれだけあつたか。奠都の後三十年、恭仁の宮を経営し、或は難波にも遷さうとした。よし遷都の習慣が古来あつたにもせよ、奈良の京に住民が充実してゐたならば、遷都などの考は容易に起るもので無い。それが朝に旧都を壊ち夕にまた新京を棄てたのである。自然に発達した市府と違つて、何も無い処に突然人工的街区を開いたのであるから、初めから内容の乏しいものであつたのは当然である。要するに宮殿官庁と寺院堂塔とを除いたならば、京は殆ど空虚だといつてもよいほどであつたろう。此の如く内容の無いものであつたのも、大宝令の官制と同じく、当時の政治家が何よりも先づ支那に倣って形式の整備を企てたからである。

 大化の改革、大宝の制度、奈良朝の政治は、其の根本が此の如く浮華なものであつて、国民生活に切実なものでは無かつた。それは政府事業として行はれた国史の編纂が、上代の有様を如実に伝へようとはしないで種々の造作を加へたり、実際の政務の挙がる挙がらぬには頓着なく、白雉だとか朱鳥だとかいつて祥瑞を誇つたのと同じ態度である。政府の公文も随分実際とは懸け離れたものがあつて、徒に文字を弄んでゐるものが少なくない。これも事実は文字通りにならないが、文字だけは支那式にやらねばならぬから起つたことである。自国で発達したもので無く、他の国に於いて既に出来上がつてゐる文物制度を学ぶ場合に、実際よりも形式が先に立つのは自然の勢であるが、其の手本が本来空文虚礼を得意とする支那であつてみれば、特に其の傾向が著しいことはいふまでも無かろう。其の本国ですら動もすると空虚に流れ易い制度を、すべての国情が違つてゐる我が国に適用したのであるから、初めから国民生活の実際と縁遠くなつてゐるのは当然である。

 太字強調部分に我が意を得たり、であります。

《 次稿へ続く 》


 
 
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